僕らの日常、アンダンテ

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 いつもより少し帰りが早い水曜日。僕は放課後、高校指定のリュックを玄関先に置き、「遊んでくる」とだけ母親に告げる。母親はニヤニヤと笑った。  この感じだと若干勘違いされてそうだが……ま、別に良いか。ハンガーラックに掛かったトートバッグを掴み、僕はドアを外へと押した。 ✽✽✽  数分ほど住宅街を歩き、水色屋根の家の前で止まる。インターホンを押すと軽快に音が踊り、一人の同級生がドアの向こうから出現した。 「いらっしゃい。今日は両親が仕事だから長く居座れるわよ、なんてね。……あれ、サッカー部はどうしたの?」 「ねえよ。水曜日は大抵部活ないと何回言えば気が済む。軽く数十回は教えたぞ」 「あーそうだった。テヘペロ」  何が棒読みでテヘペロ、だ。そう言おうとしたときには、同級生……花里(はなざと)海月(くらげ)は僕を家に上げようと玄関に並ぶ靴をきっちり揃えていた。  リビングルームを通り過ぎ、階段を上って彼女の部屋にお邪魔すると、黒鍵と白鍵がキラリと光り輝くアップライトピアノが待ち構えていた。僕は迷わずピアノ椅子に座る。ここに来る度に椅子に吸い寄せられてしまうのは、ピアノが僕を操っているから、とかだろうか。 「今日も無料レッスン、始めまーす」 「無料を強調するんじゃない、馬鹿野郎」 「残念ながらそれは事実でーす。私のレッスンが無料だなんて、ありがたく思ってよね」 「あーはいはい、そうですね、その通りですねー」  僕はトートバッグからファイルを取り出し、さらにその中から楽譜を引っ張り出す。 「今日の曲は何ー?」 「えーと、何だったかな」 「それぐらい覚えとけや! 自分で弾きたいって希望した曲でしょ」 「えーと……“パッヘルベルのカノン”だ」 「それかぁ。でもそれね、カノンの部分はとある曲の一部だし、その曲の正式名称は“パッヘルベルのカノン”じゃないの」 「何て曲名だ?」 「“3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調”」 「……ワンモアプリーズ」  海月はやなこった、と舌を出す。僕は顔をしかめながら数時間練習してきたその曲の一部を弾き始める。曲名くらいは記憶しないと作曲者に失礼だな、これから十分に気を付けよう。そう反省しながら、練習してきた部分までをあっという間に弾き終える。  海月は頷いた。 「単刀直入に言うわ、全然駄目。音の粒がぐちゃぐちゃで、全部途切れ途切れになっている。この曲の良さが丸ごと台無し。例えるなら……ストーリー性は最高なのに肝心な文章は支離滅裂で、辛うじて読むことすら不可能な小説みたい」
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