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第2話「他人の空気」
牛込神楽坂駅で途中下車し、神楽坂通りを下る。
飯田橋へと続くなだらかな坂道、長方形のタイル状のコンクリイトが敷き詰められた舗道は、都会とは思えないほどに地に足のついた感覚を提供してくれる。駅周辺の適度な静穏は、坂を下るにつれて次第に人波に溶けてゆく。私はその過程を感じるのが好きだった。特に、今日のようにぐらついてしまいそうな日、私はいつもこの道を歩く。一歩一歩踏みしめるように歩いて、現状を確認する。
神楽坂通りを半分ほど下ったところで、目についた適当なバーに入る。確かめる時間は少しだけで充分だった。だらだらと続けるのは性に合わない。
英国風の内装をした薄暗い店内には、まだほかに客はいなかった。狭小でカウンターしかない店なので、一番奥のスツールに腰かける。
「ご注文は?」
五十前後ぐらいの店主が、落ち着いた声音で尋ねる。奥のCDコンポから、Jellyfishの『New Mistake』がきこえてくる。
「ジントニック、濃いめでお願いします」
Jellyfishは確か英国ではなく米国のバンドではなかったかと思いながら、ほんの少し口角を持ち上げて答えた。
店主の男性がカクテルを作る姿を眺めながら、秋悟のことを想起する。
もとより口数が少なく、その寡黙さは人によっては無礼とさえ思えるものだけど、私は彼のそういうところが好きだった。余計な発言を好まず、食事のときはひたすらに目の前の料理に傾注する秋悟の不器用さは、初めてのデートのときから私をひどく安心させた。
そんな秋悟が、近ごろ以前よりも喋るようになった。
理由はわかっていた。夫に別の人間の影が混在していることに気付かないほど、私はまだ女として落ちぶれていない。
喋るようになったといってもせいぜい常人の半分くらいではあるものの、それまでの少なさを経験している身としては奇異の感に打たれる。
たとえば、自分からはほとんど口にすることのなかった私の手料理に対する感想を食事中に適度なタイミングで述べてくれたり、朝私が出かける際に、「今朝は予報より寒いからストールをして行ったほうがいい」なんて気の利いたアドヴァイスをしてくれたりする(秋悟は寒い日でも、毎朝三十分のランニングを欠かさない)。
かつての秋悟からは想像しにくかったそういう発言は、その都度確かに私のと胸を衝いた。それは間違いなく幸福そのもので、そんな側面を持ち合わせていたのかと、私は秋悟という男の奥深さに陶然とする。しかし、その背後に見え隠れする誰かの空気にふれると、いったいどうしてよいのか途方に暮れてしまうのだ。
「お待たせしました」
店主が、ジントニックを前から出す。こちらも良かったらと、ミックスナッツの入った小皿も提供された。私は、どうもと会釈をする。
ジントニックを啜りながら、私は鞄から読みかけの小説を取り出して読書を始める。
読書は好きだ。本と向き合っている間は、脳裏に浮かんでは消える余計な感情から逃れられる。田山花袋の『蒲団』は、読書家の後輩から薦められて借りた。神楽坂周辺が舞台の話はないかというリクエストに応えてくれたのはよいが、それにしたってこのセレクトはどうなのよと、後輩の女性職員に文句のひとつ二つこぼしたくなった。
細君がいながら、弟子として迎えた女学生に恋情を抱いて煩悶する時雄の言動に、私はページをめくりながら半笑いをこぼす。妙なプライドや臆病さが枷となって踏み出せずまわりくどい言動ばかりとる彼を文字で追いながら、つい秋悟と比較してしまう。こんな男より、秋悟のほうがずっといい。たとえ他人の空気を纏っていようと、ずっと清々しくて男らしい。
気分転換のために読書をしているのにちっとも目的が果たされていないことに気付いて、文庫本をパタりと閉じる。店内のBGMは、いつのまにか古内東子に変わっていた。どういう選曲なんだろう。曲名がわからないが、この気だるい歌声は確かに古内東子だろう。
二杯目のジントニックとミックスナッツを完食し、支払いをして外に出ると、空はすっかり黒く染まっていた。
スーツ姿のサラリーマンたちがぞろぞろと隣の大衆居酒屋に入っていくのを見て、そういえば今日は一般的には花金だったなと思い出した。
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