第6話「遅すぎた認識」

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第6話「遅すぎた認識」

 二十時五分。インターフォンが鳴りドアを開くと、古瀬さんが立っていた。走ってきたらしく、少し息がはずんでいる。 「すまないね、少し遅れてしまった」  その律儀すぎる第一声に、古瀬さんらしさを覚えた。  定時は十七時。職場からここまで、ドア to ドアで一時間弱。きっと、今日もぬるいサービス残業を二時間ほどしていたのであろうことは、わざわざ聞くまでもないことだ。パソコンや書類に向かいながら、彼はいったいどのような気持ちでいたのだろうかという胸裏(きょうり)について、まるで気にならなかったかというと嘘になる。  そんなことは、でも今はどうでもよかった。瑣末(さまつ)だとさえ感じた。田中健みたいに爽やかな、それでいてどこか諦念を帯びたような古瀬さんの笑顔は、私の思考を単純なものにする。破顔し、今にも泣きだしそうなのを隠すように、そっと引き寄せて抱きしめた。  会話は必要なかった。口にすれば、その分だけこのひとときが陳腐なものになる。言葉を超えたつながりへと昇華するためには、言葉はなんの役にも立たないことを、私たちはわかっていた。  情事は、至極円滑に遂行された。滑らかに、かつ激しくむさぼり合った。  口淫のとき、古瀬さんは車椅子のブレーキを外すときのように、やんわりと後頭部に手をやり誘導する。(くわ)えてから少し経つと両手は圧を増し、私は苦しさと嬉しさの渦のなかで涙した。古瀬さんは、手を止める代わりにぬるい笑みを返す。安易に手を止めないでくれたことが嬉しかった。    すべてが終わると、現実はすでに判別のし難い虚像のように見えた。  この家も秋悟も勤務先のデイサービスも会ったことのない古瀬さんの妻も、すべて別の次元のことのように思えた。横でこうして手を重ねている古瀬さんだけが、いまの私にとって現実味を帯びていた。ブレーキは、とうの昔に外れていた。  シャワーのあと、薄ピンクに白のドット柄が入ったロングガウンを羽織ると、古瀬さんは決まり悪そうに苦笑する。彼にぴったりの柔らかな色合いだった。  タバコを喫おうとベランダの窓を開けると、想像以上の夜気の冷たさに思わず身を寄せ合う。リヴィングの時計は二十三時を示していたが、そういえばまだ夕食をとっていなかったことに気づいた。 「明日は病欠ということにしようか」  窓を閉め、古瀬さんはテーブルの上のリモコンを手にとってテレビをつける。 「二人いっぺんはまずいですよぉ」  冷蔵庫から、シャルドネと手製のポテトサラダを取り出した。(完)
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