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2021年3月12日(金) 午後6時32分、退勤する二人
社員通用口から出た時には周囲はすっかり暗くなっていた。
坂本和真はスマホで時間を確認しながら駅に向かおうとする。その背中に聞き覚えのある声が掛けられた。
「坂本さん」
早足の歩みを急停止させ声の方向に顔を向ける。
通用口の脇に部下の佐藤正が立っていた。大きめなウエストを基準に選ばれた紺色のスーツは手足の太さに合わずダボつき気味であり、男性としてやや低めの背丈をより一層低く感じさせている。気弱さと人懐っこさを同居させた表情を坂本に向けていた。
「佐藤君、きみも帰りか」
「はい。というより坂本さんが帰られるのを見て先回りして待っていました」
「そういうのを男に言われてもなあ。あ、飲み行きたい? 最近、合法の生レバーを出す店を見つけてね」
「いえ、ちょっとお聞きしたいことがあっただけなので。道すがらいいですか?」
残念そうな顔をしながらも坂本は隣にやって来た佐藤と並んで歩き出す。
「で、何? 会社の外ってことは仕事のことじゃないんでしょ?」
早々に切り出した坂本に対し、佐藤は躊躇いながらも、言葉を選び、恐る恐る問うてきた。
「坂本さんのデスクって僕の隣じゃないですか、その……今日、僕のデスクに誰か来たんじゃないか……って」
「いや、気にしてなかったけど、誰も来なかった……かな」
坂本は佐藤が何を問おうとしているのかを察したものの口にはしなかった。
「じゃあ、僕のデスクの上に置いてあったものは見ました?」
「ああ、綺麗にラッピングされた小箱がデスクの上に置いてあったね」
「それを誰が置いたのかを知りたいんです」
隣から聞こえる必死な声の調子に思わず坂本は佐藤に顔を向けた。駅へと向かう道に並ぶ店からの灯りや街灯は周囲を照らし、縋るような表情を向ける佐藤を照らし出していた。その眼差しに恐れとも憤りとも取れるものを見て取った坂本は部下から視線を外した。
「……俺もトイレから戻ったタイミングで気が付いたから」
「そう、ですか」
隣で落胆をする佐藤をあえて視界に入れないように注意しながら、坂本は口を噤んだ。
視線を落とし、押し黙った佐藤の足取りは重く、日焼けなどとも無縁な薄い肌の色はさらに青く白くなっていた。元々は研究職を志望していたという学者肌で繊細な青年は肥満気味の身体を小さく丸めるようにして歩くだけだった。
坂本は佐藤がこれほどまでに必死になる理由を知っていた。いや、会社の殆どの人間が知っているだろう。
──ことの発端は先月の二月十三日の土曜日。その日は社の秘書課に所属する二年後輩の片平彩奈という社内で評判の美女の誕生日だった。
彩奈は佐藤が長年想いを寄せていた相手だった。しかも、土曜日に彩奈が休日出勤するということ、更には彩奈の大好物がガナッシュチョコであることを佐藤は把握していた。佐藤は休日出勤中の彩奈に誕生日プレゼントを渡す決意を固め、唯一の趣味と公言しているお菓子作りのスキルを活かし、ガナッシュチョコを手作りした。
社内チャットで彩奈を社員食堂に呼び出した佐藤は「た、誕生日って聞いたきゃら」と言って紙袋に入れたプレゼントを手渡そうとする。
しかし、彩奈は「お会いしたことが無い人から、いきなりプレゼントをいただくわけにはいかなので」と断った。
佐藤は耳を疑った。つい一週間前にも会ったばかりじゃないかと。佐藤の同期である宮藤誠司が主催する〝桜ん坊やを見る会〟というふざけた飲み会で。陽キャのノリに疲れた佐藤が、酔い覚ましにと中座した彩奈が相対し、会話を交わした時間があったこと、さらに今までに何時何処で対面したことがあるのかを早口に説明を……している途中で佐藤は諦める。
自分の容姿はよく知っている。想いを伝えようなどと烏滸がましいことは思っていなかった。ただ、彩奈の喜ぶ顔が見たかっただけだった。よもや覚えてすらいてくれなかったことにショックを受けながら、行き場を失った紙袋を引っ込めると「ごめんね」と言い残し、彩奈の元から去っていく。
……という動画が社内で広まったのだ。
それは同期社員の間で、仲の良い社員の間で、社内でゆっくりと伝播されていた。テロップや音楽が付けられ、丁寧に編集されていた動画は、隠し撮りのような動画とはいえ、佐藤の必死な様子をコミカルにまとめた内容であること、更には動画の最後にインサートされる「ドッキリ大成功!」というテロップが付いた笑顔の佐藤と彩奈のツーショット写真によって、社内の楽しい飲み同好会が作成した面白動画であると概ね好意的に受け取られた。
しかし、佐藤の上司であり、仕事を共に進めている坂本だけが疑念をいだいた。
佐藤が些細なミスを頻発し、遅刻や突然の欠勤が増えたのは二月十三日を明けた週からだった。なぜだろうと首を傾げていた折に動画の存在を知ったのだ。
坂本は隣の課の小寺沢朋美という若い女性社員が〝桜ん坊やを見る会〟のメンバーであるとことを聞きつけ、事情を聞き出そうと会議室に呼び出した。小寺沢はあっさりと〝ことの顛末〟を話しながら、自分のスマホを坂本に差し出した。
〝桜ん坊やを見る会〟のグループチャットの画面だった。二月十四日に件の動画が投稿されていた。投稿主は〝桜ん坊やを見る会〟を主催する宮藤誠司。
そして次々と投稿されているグループメンバーのコメントに坂本は軽い眩暈を覚えた。
「聞いたきゃら!噛み噛みでウケる」
「佐藤マンチョコはヤバ」
「佐藤さん必死w」
「きもカワ(・∀・)イイ!!」
「彩奈と会った日を羅列するとか鳥肌」
しかも、メンバーらは飲み会のあの日、憧れの女性との密やかな会話の余韻に浸る佐藤に片平の誕生日や好物、さらには休日出勤のことを教えて、嗾けていたのだ。
「佐藤って顔パーツはイケてるからワンチャンあったはず」
「あたし片平はイケメン苦手って百回は言ったww」
「ヨイショは営業スキルです」
「愛され佐藤の成功を俺は信じてたんだが」
「手作り喜ぶって本気にしたんだ……」
さらに残酷な事実が明らかになる。
「彩奈ちゃん女優だわ」
「え、これ録音もできてるってことはマイクどこさ?」
「私がスマホで。ごめんね佐藤さん。誠司君に頼まれて断れなくて」
片平彩奈もグルだった。佐藤の道化ぶりを嘲笑うかのような投稿は続く。
「それは惚気と俺は認識した」
「で、宮藤と片平の結婚いつ?」
「まだ彩奈を俺の親に紹介しただけだから。まだ何も決めてないから!」
「しかし、佐藤も鈍すぎでしょ。宮藤が彩奈ちゃんに粉かけたのって入社前だっけ?笑」
「疑惑の新卒の会社説明会!って速攻すぎね?」
などという話題が続き「これがイケメン宮藤クオリティか」と締め括られていた。全ては佐藤正の同期、宮藤誠司が仕組んだ悪ふざけだった。
坂本は小寺沢に佐藤が精神的な不調をきたしている恐れがある。早急に謝罪した方がいいと悟すも、小寺沢は悪びれたふうでもなく「佐藤さんはイジられキャラだから大丈夫」と言い放ち、「佐藤さんも笑って面白がっていた」とも語った。
納得のいかない坂本は首謀者の宮藤の所属先を調べて電話をするも「あの飲み会は元からそういうノリなんで……そもそも僕の彼女に色目を使ってた佐藤君も空気読めないじゃないすか」と平然と答える有様だった。徒労感に襲われながら、社用の携帯電話を机に放り出した時、いつの間にか坂本デスクの隣、佐藤デスクの傍らで佇ずむ佐藤と目があった──。
そんな出来事があっての今日、ホワイトデーが間近に迫る三月十二日の金曜日に動画の件を想起させるものが佐藤のデスクに置かれたことは非常に深刻な意味を持っていたのだ。
「……すみません……僕自身、もうどうしたらいいのか分からなくて」
黙っていた佐藤は唐突に消え入りそうな声で呟いた。ぎょっとした坂本は隣を歩く部下に向かって諭すように言う。
「やはり、前に話した会社のハラスメント窓口に相談をしよう。今からでも遅くない」
「それで社内がザワつけば佐藤は空気読めないノリが悪いって。もう嫌なんです」
言葉を詰まらせた坂本に佐藤は続けた。
「でも、坂本さんが僕の味方をしてくれていることで随分救われていて。だから大丈夫です。それに今日届いたものって僕が先月用意したプレゼントそっくりに包装されてたんですよ。悪戯にどれだけ手間かけてるんだって。もう俄然、中身が気になりますよね。僕、会心の出来だった〝花びらのショコラ〟以上のものか、お手並み拝見って感じで」
明らかな虚勢とカラ元気で飾りたてた言動だったが、坂本は胸の内に充満したばつの悪さを抱えたまま、その様子を黙って見守るほかなかった。
「僕、こっちなので。あの、お疲れ様でした」
「うんお疲れ。近いうちに生レバーの店に行こうか」
駅の改札前、徒歩通勤の佐藤は駅の先に、電車通勤の坂本は改札を通り、二人は互いの帰路についた。
そして翌週。佐藤正は出社しなくなった。ほどなくして医師の診断書が人事部に郵送されてきたことで、佐藤はそのまま休職に入ることになった。
***
半年ほど経った頃、宮藤誠司と片平彩奈が別れたという話を坂本は耳にした。
社内で評判の美男、美女であり、人並以上に仕事も出来た二人の婚約の話に役員の誰が仲人をするかと揉めたなどという噂が立つほどだったのに。原因は片平の心変わりだという。好きな男が出来たからと片平の方から婚約の解消を歎願したのだそうだ。
その話と前後し、宮藤誠司に諭旨退職の懲戒処分が下されたとの社内通達が発信された。機密情報を社外に漏洩させようとしたことを理由とする処分であるとの説明だった。噂では、片平と破局した宮藤に折よく舞い込んだヘッドハンティングの誘いに応え、自身の業務成果として持ちだそうとした資料が機密情報に相当したのだという。
不穏の連鎖はさらに続いた。
片平彩奈が退職したのだ。人事通達を見て知った者が大半を締めるという突然の出来事だった。直属の上司にすら退職理由を〝一身上の都合〟と繰り返し、黙して何も語らぬまま、会社を去ったという。その姿は半病人のようにやつれ、かつての美貌は見る影もなくなっていたという。
なお、その人事通達の片隅に休職中だった佐藤正の退職も発表されていたが、片平の退職騒動の影に隠れ、話題にする者はいなかった。
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