1 金魚

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 良い子でいればよかった。 「逃げなきゃっ!」  言うことを聞いて、金魚鉢の外に見える世界なんて知らんぷりをして。 「エ、エレベーター!」  水温管理がされて、時間になったらご飯が出てきて、いつだって綺麗な水槽の中で満足していたらよかった。  この水槽の外に水があるのか、ないのかもわからないくらいに無知なんだから。 「エレベーター! は、早くっ!」  水の中じゃなくちゃ呼吸ができないのに。 「来た!」  ほら、息ができない。苦しくて、怖くて、もう――。 「! 君は」  優しい声。  ――大丈夫。  優しい手。  ――ネクタイを直すだけだから。  魔法みたいな指先。 「さっきのネクタイの……」  この人の結んでくれたネクタイは心地よくて、そう、あの時は、とても息がしやすくなった。 「なんか……変、じゃない、かな」  スーツ着用って言われたけれど、なんか、ネクタイが……変、かな。成人式にって準備したものは、あのままじゃ、ちょっとさすがにリクルートっぽすぎるから、やめたんだけど……なんだか上手に結べない。 「うーん……」  首を傾げながらホテルのロビーの大きな窓ガラスを鏡の代わりにして、昨日買ったばかりのネクタイを指でとりあえずいじってみた。けれどやっぱりどこかおかしくて。  一日中降り続いている雨のせいで濡れているガラスに向かって首を傾げてる。  でも、気にしないかな。  きっと脱いでしまうし。 「……」  でもそんなのもちゃんとしてないようじゃ、代えられちゃうかな。  今日、俺のことを買ってくれた人に。  どうしようかと悩んで、でも、と手をネクタイから離したけれど、やっぱりまだなんだか不恰好な気がして……。 「あ……くるし……」  あぁ、ほら、いじくり過ぎたせいで、どうしてだか締め付けてしまったみたいで苦しい。本当に不器用なんだ。あぁぁ、もう、余計に変になってしまった気がする。気がするけれど、今、ここでジャケットを脱いでネクタイを外して、結び直すのもちょっと……人目が気になるし。 「失礼、きっと襟とのバランスが悪いんだと思うよ」 「!」  びっくり、した。 「あぁ……なるほど、これは少し結びにくいかもしれない」  知らない人が急に、話しかけて。 「失礼、首元、触るよ?」 「……ぇ?」 「大丈夫。ネクタイを直すだけだから。スーツは普段着ないかな?」  その人はとても上品に微笑みながら、俺の首元に手を伸ばす。  抗うわけでもなく、ただびっくりしたままろくに返事もできずにいる自分の姿がガラス窓に映っていた。  かっこいい、人だ。  背も高い。  柔らかそうな髪。  香水、似合いそうな人なのに。  つけてないんだ。ネクタイを結び直してくれる指先はすぐそこ、鼻先、喉の辺りを忙しなく動き回っているのに、なんの匂いもしない。 「うん……これでどうかな」 「……」  その人が満足そうに笑ったのがガラス窓に映っていた。 「ごめんね。つい気になってしまって。ウインザーノットのほうがバランスいいと思うよ?」  ウインザー?  何? 「ネクタイの結び方の名前」 「あ、すみ、ませ」 「いや。とってもカッコいい」 「!」  貴方の方がよっぽど。 「足止めしてしまった。それじゃあ」  けれど、またちっとも話せないまま、彼はどこかへ行ってしまった。フロントを通らず、どこか上の階へ。  宿泊客じゃないのかな。それとも長期滞在、とか? なのかな。  いいな。あんなかっこいい人が俺のお客さんだったらいいのに。でも、そんなわけないか。夜の、そういう行為の相手をお金で買うような人なんだから。 「! いけない。約束の時間っ」  そして俺はそのまま指定された階へとエレベーターのボタンを押した。  逃げなきゃ。 「おい、待て!」 「や、っだ……!」  逃げなくちゃ。とにかく逃げなくちゃ。 「待てぇ!」  ネクタイと、ジャケットをとにかく鷲掴みにして、部屋を飛び出した。 「逃げなきゃっ!」  外したままのベルトの金具がカチャカチャと忙しなく金属音を立てる。けれど、ホテルの廊下は敷き詰められた絨毯のせいなのか、その音と一緒に俺の足音も消してしまう。  そして、「助けて」の声さえも吸い込んで、消してしまいそうで。  怖くてたまらない。  足が震える。 「エ、エレベーター!」  ただ、してみたかったんだ。  興味があって。  その興味ばかりが閉じ込めておけないくらいに膨らんじゃって。  けれど、俺の周囲にはそんなことを許容してくれそうな人なんていなくて。  バレたら、完璧主義で潔癖症の親になんて言われるかわからない。  怖い。  だから、ずっと我慢してた。気が付かないフリをしてた。諦めてた。  そしたら欲求は膨らんで、膨らんで、どうにもできないくらいに膨らんで。  大丈夫って言うから。  お客さんは身分の保証された安全な人ばかりで、怖いことは絶対に強要されないって言うから。  飛び込んでみたんだ。  ううん。飛び出してみた。 「エレベーター! は、早くっ!」  何か、身体の中に。  何を塗られたんだろう。  熱くてたまらない。  ジンジンして、おかしくなりそう。  ちゃんと歩けてる?  俺、走れてる?  早く逃げないとさっきのお客さんが来ちゃうのに。だからお願い。早くエレベーター、来てよ。  怖いよ。 「来た!」  自分が何を鷲掴みにしていたのかわからなかった。シャツなのか、ネクタイなのか、ジャケットなのか。とにかく自分不埒な好奇心の結果が招いた怖いことから逃げ出そうと。そのエレベーターに。 「! 君は」  優しい声。  ――大丈夫。  優しい手。  ――ネクタイを直すだけだから。  魔法みたいな指先。 「君は、さっきのネクタイの……」  この人の結んでくれたネクタイは心地よくて。 「……ぁ」  また、会えた。  あのかっこいい人。 「その格好、どうし……」  その時、ひどく爛れた声が追いかけてきて、その人が俺が来た方へと顔を向けた。俺は、振り返ることもできなくて、ただ身を縮めて、ここで小さな石ころになれないかなって。どうにか、神様、お願いだから、もう二度とこんなことはしませんから、どうか、どうか俺を。 「待っていて。これ」 「!」  石ころに。 「僕のコートだ。羽織って」 「……ぇ?」  優しい声に包まれるように。 「失礼……僕は、彼を派遣した店の警備のものですが」  優しい指先、魔法のような手が俺のことを引っ張って、さっき、ホテルのフロントロビーの大きな窓ガラス、濡れたそのガラス越しに見つめていた大きな背中で隠してもらった。
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