2 雨宿り

2/2
3242人が本棚に入れています
本棚に追加
/184ページ
「あ、あの……」 「大丈夫だよ」  俺はガタガタ震えながら、その人の背中の影で隠れているばかりだった。 「もうさっきの男はいない。平気だ」  ネクタイを直してくれた人が、「お客さん」と少し話をしてくれた。この人が俺を隠して離れたところにいさせてくれたから、何を話していたのかはわからなかった。お客さんは部屋に戻っていって、俺はこの人と一緒にエレベーターへ。 「怖かっただろ」  ただその一言で泣いてしまうかと、思った。  エレベーターの中でその人は優しく笑って、コートで見えないように皺くちゃな俺を包んでくれる。 「ちょっと丈が合ってないけど、コート着ていていいから」 「あ、あのっ」 「歩ける?」  エレベーターが地上一階へと降り立つと、扉が音もなく開いた、けど。  ど……しよ。  ここを出て、それで、このアルバイトの、えっと。  どうしよう。  どうしたら。 「大丈夫」 「……」  混乱と戸惑いと、それから恐怖に眩暈がしそうだった。  でも、その人はそんな俺の先を促すようにこの箱から一歩フロアへと出て、そこで手招いてくれる。  大きな手。  その手につられるように片手だけ、ぎゅっと、つかまるように握り締めていたこの人のコートから手を離した。  その手を掴んで。  その時、自分の手が震えていたことに気がついた。カタカタと俺よりも少し大きくて、温かい手の中で、凍えているように震えてる。  それに、歩きにくい、  足……も震えている。  転びそう。 「おいで」  辿々しい足取りで転んでしまわないようそっと、その手を頼りに、ゆっくり。 「ここで少し待てるかな」 「あの……でも」  その人は優しく微笑むと、俺をあまり人の目につかないよう、観葉植物の陰に立たせて、頭を撫でてくれた。そして、フロントの方へと歩いていく。 「……」  通報、してる、のかな。  この、売春行為、とかで。  捕まる、かな。  そしたら、親のところに連絡、行く?  でも、二十歳だから、行かない?  そんなこともわからない。  でも、捕まってしまえば、さっきのお客さんも、それからここへ俺を派遣したあのアルバイト先ももう追いかけてなんて来ないかもしれない。  そっちの方がいい、かも。  多分、そういうビジネスの人なら警察は大嫌いだろうし。あのお客さんだって、俺の身体におかしな……。 「ラッキーだった」 「!」 「部屋が空いてたよ」 「……ぇ、あのっ」 「さ、もう一度、今度は十七階だ。結構高いところの部屋だから夜景が綺麗かもしれない」 「あ、あのっ」  そして、今さっき降りてきたエレベーターのボタンを押すと、待っていたみたいにエレベーターはすぐにその扉を開けてくれた。けれど、俺は、もしかしたらさっきのお客さんが乗っているんじゃないかって、怖くて。その扉が音もなく開いた瞬間に身体が勝手に飛び跳ねてしまう。  でも、誰も乗っていなかった。  十七階って……言ってた。  部屋を、取ってくれた、の?  それともそこで待っていたら警察が来るとか?  二人っきり、エレベータの中は静かで、わずかで、いつもなら気にもならないだろうエレベーターの上昇音さえ聞こえてきる。 「……気をつけなさい。悪いことをする人間は山ほどいるから」 「……あの」 「さ、着いた」  エレベーターは他の誰とも乗り合わせることなく、俺たちを十七階まで送り届けてくれた。  二人で、絨毯に足音も消えてしまう廊下を歩いていく。さっきの場所と風景が変わらないから、また戻ってきたような気がしてしまう。もしかしたら、どこかから出てくるんじゃないかって、そんなわけないのに、あのお客さんが取っていた部屋はずっと下、一桁の階だったのに。 「ここだ」  その人は部屋のカードキーを差し込み、開けてくれる。そのままドアを開けて、先に中へと入っていく。 「案外、いい部屋だよ。急遽、取ったにしては。高いところは大丈夫?」  ドアがあって、部屋へと続く廊下がある。さっきは、カーテンを締め切ってしまっていたけれど、ここはカーテンをしていないから、外の、大きな、一面のガラス窓から夜景が見えた。  その夜景を背に優しい人が手招いてくれる。 「あぁ、すごいよ」  ほら、と差し伸べられる手につかまりたくなる。  怖いのが、消えていく。 「見てごらん」  さっき繋いだ時、温かかった手にもう一度、つかまりたくて、俺は彼へと手を伸ばした。 「少し落ち着いたかな?」 「あ……の、どうし……! あ、わっ」  その時だった。みじろいだ瞬間、中から垂れて、その、後ろのところがじんわりと湿ったのを感じた。濡れて、それに熱くて。 「あのっ、ごめんなさいっ」  どうしよう。  今、これって。  俺、どうしよう。  この人のコート着させてもらってたのに。 「こ、これ、弁償しますっ、だから」 「……大丈夫、落ち着くんだ」 「でもっ」  どうしよう。  中の垂れてきちゃった。 「あのっ」  この人のコート、汚しちゃう。 「平気だ」 「でもっ」  きっとさっきお客さんに無理矢理、中に入れられたやつが。 「本当にごめんなさいっ、助けてもらったのに、こんな」  もう、やだ。  こんなとこ見られて、最低だ。  最悪だ。  もう、こんな思いをするなら、さっき、あのまま――。 「ごめん。傘がないんだ」 「……え?」  今すぐ消えてしまいたいと願った瞬間、とても困ったような声と、困ったと言いたそうな溜め息を、この人が溢した。 「雨なのに」 「……ぁ、の」 「君も傘を忘れてきたみたいだし」 「……」 「でも傘がなくても仕方ない。今日は予報だと雨は夕方には止むはずだったんだから」 「……」 「だから、雨宿り、させてくれないか?」 「……」 「雨宿り」 「……」 「ここで一緒に雨宿りしよう」  その人は微笑みながら、また、俺の頭を優しく、優しく、撫でて……くれた。
/184ページ

最初のコメントを投稿しよう!