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「力加減は大丈夫?」 「あの、大丈夫、です」  おかしな返事をしていないか心配になったけど、すぐに気持ちよくなってウトウトしてきた。それがわかっているのか、それから慎兄さんは何も言わずに長い指でゆっくり頭を揉むように髪の毛を洗ってくれた。  いつも同じ髪型にしている僕は、髪を切る前に「希望の長さとかある?」と聞かれても答えられなかった。いつも行く床屋では毎回同じ長さに切ってもらうだけだったから、髪型のことなんて考えたこともない。何て答えようかと焦っていたら「俺好みにしても平気?」と聞かれて思わず「はい!」と答えていた。  そうして切ってもらった髪は、僕になんてもったいないくらいお洒落だった。もっさりした田舎の男だった僕が、ちょっとだけ都会の人になったような感じがする。それから髪を染めたんだけど、何とかっていう横文字の染め方らしくて名前すら覚えられなかった。 「全体じゃなくて、部分的に染めるだけだから」 「……はい」  説明されてもよくわかならかった僕に、慎兄さんは「こんな感じかな」と言ってタブレットで写真を見せてくれた。画面には、黒髪に何本も明るい色が入っていて毛先も明るくなっている後ろ姿の写真が映っていた。そんな派手な色にするのは恥ずかしいと思っていたら「色は暗めにするから」と言われて少しだけホッとした。  そうして初めて髪を染めた後、今度はすぱっていうのをしてもらうことになった。レモンみたいな香りのオイルを頭皮に塗ったりマッサージをしてもらったり、至れり尽くせりというのはこういうことを言うに違いない。 (それを、全部慎兄さんがしてくれるんだもんな)  切っているときも染めているときも、目の前の鏡を見るたびに慎兄さんの顔が見えた。当たり前なんだけど、視界に入るたびに「慎兄さんに切ってもらっているんだ」と思ってドキドキした。長い指が僕の髪の毛に触れるだけでソワソワした。それを隠したくて挙動不審になってしまったけど、変な奴だって思われなかったか少し心配になる。  そしていまは、シャンプー台で頭皮を揉むように慎兄さんの長い指が僕の頭に触れている。こういうことをされたのは初めてで、だからか余計にドキドキしたる。そのうち段々気持ちよくなってきて、それからはずっとウトウトしっぱなしだ。 「寝てる顔もかわいいなぁ。あーやばい、キスしたくなる」  どこからか慎兄さんの声が聞こえた気がした。 (……って僕、眠って……?)  ゆっくり目を開けたら、慎兄さんに見下ろされていてびっくりした。一瞬何が起きたのかと思ったけど、そういえば頭を洗ってもらっていたんだっけと思い出す。 「気持ちよかった?」 「え、と……」  お湯の音は聞こえないけど、代わりに頭がホカホカしている。どうなっているのかわからなくて、キョロキョロと目を動かしてしまった。 「ホットタオルしてるから、あと少し眠ってていいよ。終わったら起こしてあげるから」 「あの、……はい」  どうやら僕は完全に眠っていたらしい。恥ずかしくなって小さい声で返事をしたら、慎兄さんがニコッと笑いかけてくれた。 (……どうしよう、笑顔もかっこいい)  目を瞑ったけど、ドキドキしていたせいか今度は眠ることはなかった。  そのあと首や肩を揉んでもらって、それからドライヤーで丁寧に乾かしてもらった。最後にいい匂いがする整髪料を少しだけ塗ってもらって、初めての美容院が終わった。 「ドライヤーは、手櫛で適当に乾かしても綺麗にまとまるから。それから……はい、後ろはこんな感じ。ここではそんなに目立たないけど、太陽に当たったら綺麗に見えると思うよ。時間が経ったら少し色が抜けて明るくなるけど、その頃は髪も伸びてるだろうし、また切りにおいで」 「え……?」  やったことがない髪型と色に鏡を見ながら「ひょえぇ」と思っていたから、うっかり聞き逃すところだった。 「あの……また、切りに来る、んですか?」  思わずそんなことを言ってしまった。「これじゃあ失礼じゃないか!」と思って慌てて「ええと、そうじゃなくて、」と言ったら、鏡の中の慎兄さんが「あはは」と笑い始める。 「三春くんは相変わらず遠慮がちだなぁ。急に連絡してくる二海とは大違いだ。もし俺に切られるのが嫌じゃなかったら、ぜひ来てほしい」 「そんな、嫌だなんて、思わないです」 「よかった。それじゃあ連絡先交換しようか」 「え……?」 「店に電話で予約してもらってもいいけど、俺がいないときもあるからね。直接メッセージもらったほうがありがたい」 「ええと、あの、」  さすがにそれは迷惑じゃないだろうか。それに僕から慎兄さんに連絡なんて、緊張してできそうにない。どんな文章を送ればいいか考えて考えて、結局送れないような気がする。そう思っていたけど、会計のときに「スマホ貸してくれる?」と言われて素直に渡してしまった。  こうして兄さんたち以外は数人しか登録していないメッセージアプリに、慎兄さんの連絡先が加わることになった。 「おぉー、かわいいじゃん」 「かわいいって……」  帰宅したら、出かけようとしていた二海兄さんと玄関で鉢合わせした。僕が「ただいま」って言う前に「想像以上にかわいくなったな」なんて言うから、思わず呆れてしまった。 「な? 慎太郎に任せてよかっただろ?」 「それはまぁ、そう思うけど」  お洒落になりたいとは思っていないけど、慎兄さんにいろいろしてもらえたのはよかったと思っている。だって、こういうことでもない限り慎兄さんに近づける機会なんて僕にはないんだ。 「……なに?」  スニーカーを履きながら、二海兄さんがじっと僕を見ている。何だろうと思って声をかけたら「うーん、こりゃあかえってまずいかもなぁ」なんて言い出すから思わずムッとしてしまった。 「そりゃあ、僕みたいな男にはこんなお洒落な髪、似合わないと思うけどさ。でも、勝手に予約したのは二海兄さんだからね」 「違うって。かわいくなったのは当然として、これじゃ余計な虫まで寄って来そうだなって思っただけ」 「虫……?」  もしかして、最後につけてもらった整髪料に虫が寄ってくるってことだろうか。でも、帰り道で虫に襲われたりはしなかった。 「ま、諦められなかったのは慎太郎のほうだから、責任取るだろ」 「ちょっと、責任って何のこと?」  よくわからないことだけ言ってドアを開けた二海兄さんにそう問いかけたら、「おまえも兄貴も、ろくでもない輩にモテるってことだよ」と言われた。 「ちょっと、それじゃあ意味がわからない」 「心配すんな。おまえも兄貴と一緒で彼氏が守ってくれるだろうからさ。その彼氏が一番ろくでもねぇけどな」 「え? って、彼氏って、僕そんな人いないからね!」 「わーってるって。んじゃ俺、優美(ゆみ)んとこ行ってくるから」 「鍵、しっかり閉めとけよ」って言いながら、二海兄さんが出て行った。夕方から優美ちゃんのところに行くってことは、たぶん泊まってくるってことだ。  二海兄さんと優美ちゃんはつき合いが長いベテランカップルだ。それに優美ちゃんは幼馴染みだから、僕や壱夜兄さんもよく知っている。二人とももう二十九歳だし、泊まるのだってしょっちゅうだ。 「結婚しないのかなぁ」  優美ちゃんのほうは絶対に結婚したがっている。それなのに待たせっぱなしだなんて、二海兄さんはヘタレに違いない。  鍵をかけながら、二海兄さんが言った言葉を思い出した。 「彼氏が守ってくれるって……そんなの、僕にいるわけないじゃんか」  そもそも、なんで彼氏なんだ。彼女がいるかもしれないって思わないのかな。 「そりゃあ、僕はずっと慎兄さんしか見てなかったけどさ」  そのせいか、いままで女の子を好きになったことは一度もなかった。だからって慎兄さんと付き合いたいなんて大それたことも思っていない。告白しようと思ったことももちろんない。  だって、相手は七歳も年上なんだ。それに慎兄さんは昔からかっこよくて人気者だったし、そんな慎兄さんが僕を親友の弟以上に見てくれるはずがない。 「それなのに、やっぱり諦めきれないっていうか……はぁぁ」  おまけに、今日会ってしまったせいでますます忘れられなくなった。二海兄さんからしたら親友にもらった割引券を弟の僕に譲った程度のことなんだろうけど、僕の片思いは見事に再燃してしまっている。つい数時間前までは「片思いだった人」だったのに、いまは「やっぱり好きな人」に逆戻りだ。 「だからって、僕と慎兄さんがどうこうなるとか絶対にあり得ない。僕は壱夜兄さんとは違うんだ」  壱夜兄さんは優しくて大人で、それに弟の僕から見ても綺麗な人だと思う。女性的じゃないのに、かっこいいっていうよりも綺麗って言葉が似合う大人の男だ。  だから、幼馴染みで同性の靜佳(しずか)と恋人になっても全然おかしくなかった。海外暮らしをしていた靜佳が大人びているからか、32歳の壱夜兄さんと26歳の靜佳が並んでいてもまったく変じゃない。むしろ大人の恋人って感じで素敵だなぁといつも思っている。  二海兄さんだってチャラチャラしてはいるけど、高校のときはイケメンで有名だった。ファンクラブもあったみたいだし、いまでもすぐナンパされるんだって優美ちゃんが文句を言っている。 「それに比べて、僕なんて……」  小さい頃から何をしても自信が持てなかった。年が離れているから兄さんたちはかわいがってくれたけど、外に出たらただの冴えない男だ。人見知り気味で社交的でもないし、そんなだからモテたことなんて一度もない。  そんな僕がかっこよくてお洒落な慎兄さんと付き合うとか……。 「ないない」  ブンブンと頭を振る。それに小さいときからずっと片思いしているなんて知られたら、絶対に引かれる。だから、僕がずっと好きだったってことは絶対に言わないって決めたんだ。 「……髪、どうしようかなぁ」  慎兄さんは「また切りにおいで」って言ってくれたけど、僕から連絡する勇気は出そうにない。今日はお客さんが三人だけだったけど、三人ともお洒落なお姉さんだった。美容師の人たちもお洒落で素敵だった。そんなお店だと思うだけでやっぱり気後れしてしまう。 「うん、もう一度行くなんて僕には無理だ」  おじさんにはびっくりされそうだけど、伸びてきたらいつもの床屋に行こう。何度か切っているうちにお洒落な色の部分もなくなるはず。そうしたらいつもの僕に戻って、お洒落な髪にしたことも忘れられるはずだ。  せっかく連絡先を交換したけど、メッセージを送ることはないだろうなと思いながらスマホをテーブルに置いた。
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