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慎兄さんに髪を切ってもらってから半月ぐらいが経った。髪は少しだけ伸びたけど、色は慎兄さんが言ったみたいに「抜けて明るくなる」って感じには見えない。
「初めて染めたから抜けてるかなんてわからないけど……いや、抜けてなんかない」
もし色が抜けてしまったら染め直さないといけなくなる。ってことは、あのお洒落な美容院にまた行かないといけないってことだ。
「それは、もう無理」
あんなお洒落なところにまた行くなんて無理だ。それに行くとしたら慎兄さんに連絡しないといけないわけで、それが一番無理そうな気がする。
「そりゃあ、また会いたいとは思うけどさ」
髪を切りに行った日から毎日のように慎兄さんを思い出している。鏡に映っていたかっこいい顔も、僕の頭を優しく洗ってくれた長い指の感触も、それに僕を見ながら「またおいで」って言ってくれた笑顔も何度も思い出した。
思い出すたびにドキドキして、少しだけ胸が苦しくなった。本当はまた会いたいと思っているけど、やっぱり会いたくないと思ってしまう。ずっと好きだけど、このまま好きでいてもいいのか不安になる。
「……僕、どうしたのかなぁ」
こんなの、やっぱり変だ。変になった原因があのお洒落な美容院に行ったせいだとしたら、もう行かないほうがいい。
「うん、もう行かないほうがいいんだ」
それに、僕なんかのために慎兄さんの時間を奪ってしまうのも悪い気がした。二海兄さんが「慎太郎の指名予約ってなかなか取れないらしいから」って言っていたことを思い出すたびにそう思った。
「そもそも、僕みたいな男には似合わないだろうし」
こんなお洒落な頭を似合うって言ってくれるのは兄さんたちだけだ。そういえば靜佳も「似合ってる」って言ってくれたけど、あれだって幼馴染みだからに違いない。もしくは「かわいいよね?」と言った壱夜兄さんに気を遣ったに違いない。
「壱夜兄さん、バイト中もかわいいとか言うからさ」
それが恥ずかしくて、一回だけ注文を聞き間違えてしまった。常連さんだったから笑って許してくれたけど、本当に僕って奴は何をやっても駄目なんだと少しだけ落ち込んだ。
高校を卒業したあと、僕は大学に行くでもなく就職するでもなく家で暇な時間を過ごしていた。大学や専門学校に行くことを考えなかったわけじゃないけど、家から通えるところに行きたい大学とかがなくて進学はしなかった。
「そもそも、やりたいことがないんだよなぁ」
僕は昔からこうだ。おまけに要領が悪いからか、いつも兄さんたちに助けてもらってばかりいる。いまのバイトだって壱夜兄さんが働いている喫茶店だし、その喫茶店だって靜佳のおじいさんのお店だから働かせてもらえているようなものだ。
高校を卒業したあと一人暮らしをしてみたいって思ったこともあったけど、料理はできないし掃除も得意じゃない僕には無理だと諦めた。それに兄さんたちが口を揃えて「一人は危ない」って心配するくらいだから、この先も一人暮らしは無理そうな気がする。
「父さんは好きなことをすればいいって言ってくれるけど……好きなことって何だろう」
翻訳の仕事で海外にいることが多い父さんは「そばで見守ってやれないから」と、心配しながらも僕の意見を尊重してくれた。それに「無理はしなくていい、ゆっくりやりたいことを探せばいい」とも言ってくれている。でも、その好きなことがいまの僕には見つからなかった。
「好きなこと……好きなこと……まぁ、慎兄さんのことはずっと好きだけど」
(って、そういうことじゃないし!)
慌てて頭をブンブン振る。父さんが言った「好きなこと」はそういうことじゃないのに、僕は何を考えているんだ。
「好きなこと……やりたいこと……うーん」
そういえば写真を撮るのは好きだ。でも、スマホで空とか花とか野良猫とかを撮る程度だから、仕事にしようなんて思ったことはない。父さんの影響で本を読むのも好きだ。でも、それが仕事に役立つとはやっぱり思えなかった。
僕の好きなことは仕事に繋がらないことばかりだ。二十二歳にもなった男がこんな状態なんて、さすがに引くレベルのような気がする。
「こんなんで生きていけるんだろうか」
このままじゃ、この先も壱夜兄さんに養ってもらうことになりかねない。そんなの、いくら弟でも情けなさすぎる。
そんなことをウンウン考えていたら着信音が鳴った。テーブルに置いていたスマホを見ると、慎兄さんの名前が表示されている。
「え!? 慎兄さん!?」
慌ててメッセージを開いたけど、間違いなく慎兄さんからのものだ。
「今日の夕方五時過ぎに会えないか、って……。今日って……今日!?」
慌てて時計を見た。三時過ぎってことは、五時まで二時間もない。
「え……と、車で迎えに行くから……って、迎えにって、慎兄さんが迎えに来る!?」
ど、どうしよう……。迎えに来てくれるっていうのに断るのは悪い。そもそも僕に会いたいってどういうことだろう。僕はメッセージを見ながらテーブルの前をウロウロと歩き回った。
「落ち着け僕。“会いたい”じゃなくて“会えないか”だ」
きっと僕に何か用事があるんだ。そうだ、僕に会いたいわけじゃない。
「そっか、髪の毛がどうなったか見たいのかも」
結局あれから一度も慎兄さんに連絡していない。だから、その後どうなったか心配してくれているんだ。
「どうしよう、髪の毛なんてちゃんと整えたことないんだけど……」
慎兄さんが切ってくれたのにボサボサ頭で会うことなんてできない。そう考えた僕は慌てて洗面所に向かった。
洗面台の脇にある棚には、兄さんたちが使っている整髪料なんかも置いてある。何種類もある中で、美容院でつけてもらったのと似ている香りのものを選んでほんの少し指に取った。
「二海兄さんが何種類も持ってるのが不思議だったけど、今回は助かった」
どうやってつければいいのかわからないから、慎兄さんがしていたように指で髪の毛をサクサク梳くようにする。
「なんだかちっとも変わってない気がするけど……って、そうだ。服!」
いま着ているのはお気に入りのスウェットだ。壱夜兄さんは「かわいいよ」って言うけど、こんな普段着で慎兄さんに会うわけにはいかない。
階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込んでから、クローゼットをゴソゴソ漁った。
「ええと……あった!」
着ることがあまりない綺麗なままのシャツと、外行き用のデニムパンツを引っ張り出す。
「そっか、今日は曇ってるから外は寒いか」
それなら裏側にボアがついたズボンのほうがいいかもしれない。持っていたデニムをベッドに放り投げて、チェック柄のズボンを引っ張り出した。
見た目は普通のズボンだけど、裏側がボアになっているからすごく暖かい。真冬に雪が降ったときも平気だったから、これならきっと寒くないはず。
「寒いとトイレが気になるからさ」
慎兄さんと会うのにトイレのことばかり気にするのは恥ずかしすぎる。うん、シャツとこのズボンにして、上にコートを着れば……。
「って、まだコートは早いか」
もうすぐ十二月だけど冬のコートは早い気がした。それなら、このへんにたしか……あった。
「厚手のパーカーなら変じゃないよね」
念のためマフラーもすれば寒くない。もし暑くなったらマフラーを取ればいい。
もう一度、選んだ服をベッドに並べて確認した。うん、これならかっこいい慎兄さんの隣にいてもおかしくはないはず。真っ白なパーカーは壱夜兄さんが選んでくれたものだし、「似合ってる」って言っていたから変じゃないと思う。中身が冴えない僕なのは仕方がないとして、服だけでも変じゃないものを着ておきたい。
よし、これで大丈夫と思って時計を見たら四時を少し過ぎていた。
「……あぁ!」
しまった、慎兄さんに返事をしてない! 慌ててスマホを探したけど、ベッドにも机にもなかった。
「テーブルに置いたままだ!」
バタバタと階段を下りてからリビングに入ったら、やっぱり置きっぱなしになっていた。急いで返事をしようと手に取ると、画面に慎兄さんからの新しいメッセージが表示されていた。
「無理なら、また今度……って、無理じゃない!」
僕至上一番っていうくらの速度で、でも変な文章にならないように気をつけながら何とか返事を送った。
それから急いで着替えて、去年のクリスマスに二海兄さんがくれたデニム生地のボディバッグに財布やハンカチを入れる。念のためにもう一度洗面所で鏡を見て、また整髪料を少しだけ拝借してから何となく髪をまとめた。パーカーを着てから前も後ろも鏡でチェックして、ボディバッグを肩にかけてからもチェックしていたら玄関のチャイムが鳴った。
心臓が壊れそうなくらいドキドキしながら、大急ぎで玄関に走って行った。
「本当に用事なかったの?」
「はい、大丈夫です」
「そっか。金曜日だから、てっきりデートとかあるんじゃないかと思ってたんだけど」
「で、デートなんて、そんなの、ないです」
そう答えたら、慎兄さんがちょっとだけ笑ったような気がした。そんな横顔もかっこいいなぁと思いながらじっと見ていたら、今度は流し目で僕を見てくる。
(か、かっこいい)
兄さんたちが運転する車にも乗るけど、運転する姿は慎兄さんが一番かっこいいと思った。そんなかっこいい慎兄さんの隣に座れるなんて、年末の宝くじが当たるより絶対にすごいことだ。
「デートなんてないって、彼女とかいないの?」
「い、いません!」
思わず大きな声で答えてしまった。信号が青になって車が走り出したけど、窓を閉めた車内は静かだからか僕の声は思っていたより大きく聞こえた。
「あはは、そっか。でも三春くんはかわいいから、すぐに恋人なんてできそうだけど」
「か、かわいいって……」
「あ、男にかわいいはナシか」
そんなことはない。兄さんたちに言われると微妙な気持ちになるけど、慎兄さんに言われるのは嬉しい。っていうより、慎兄さんになら何を言われても嬉しくなる。
「店で借りてる駐車場、ちょっと離れてるから先に店の前で下ろすね」
「あ、はい」
そういって車が止まったのは、あのお洒落な美容院の前だった。僕が下りると、かっこいい慎兄さんが運転する車が音を立てずに走り出す。それを見送ってから、改めてお店を見た。
今日は臨時休業とかでブラインドが下りているから中は見えない。それなのに美容院に来ることになったのは、少しだけ伸びた髪の毛が気になるからって慎兄さんが言ったからだ。
「僕は全然気にならないけど、やっぱり美容師だからなんだろうな」
都会でヘアメイクなんてすごい仕事をしていたくらいだから、ちょっとした長さも気になるんだろう。そんなすごい人にタダで切ってもらってもいいんだろうか。
「『俺が気になってるだけだから』って言ってたけど、本当にいいのかな」
それに、この前だって割引券よりさらに安くしてもらった。「ほかのお客さんには内緒だよ?」って口に人差し指を当てて小声で言う慎兄さんがかっこよすぎて、一瞬だけ気が遠くなったのを覚えている。そのせいで遠慮するのを忘れてしまったくらいだ。
「内緒だよって言った慎兄さん、かっこよかったなぁ」
人差し指を口に当てながらニコッて笑った顔を思い出したら、一気に顔が熱くなった。慌てて手でパタパタ扇いでいたら「お待たせ」って声が聞こえてドキッとする。振り返ると、かっこいい慎兄さんがかっこよく立っていて、やっぱり顔が熱くなった。
そんなかっこいい慎兄さんに促されるように、誰もいないお店の中に入った。
お店の中がシンとしているからか、呼吸する音さえも聞こえそうな気がして緊張する。そんな僕の後ろで、慎兄さんがカミソリみたいなもので毛先をシュッシュッと切っていた。
そうっと鏡越しに慎兄さんを見る。真剣な眼差しがかっこいい。長くて綺麗な指が僕の髪に触っているのが見えるだけで、やっぱり顔が熱くなる。その指がたまに耳とか首とかに当たると、ドキッとして体が跳ねそうになった。
(落ち着け僕……落ち着け……)
きっと二人きりっていうのがよくないんだ。この前も緊張したけど、周りに人がいたからかここまでじゃなかった。それなのに今日は二人きりだからかめちゃくちゃ緊張して、慎兄さんのことを変に意識してしまう。
「はい、終わり。……うん、これで半月はもつかな」
鏡を持った慎兄さんが「後ろ、すっきりしたよ」と言って合わせ鏡にして見せてくれた。たしかにすっきりしたような気はするけど、元々自分の髪型を気にしたことがなかったからよくわからない。それよりも僕を見ながら微笑んでいる鏡の中の慎兄さんの顔のほうが気になって、自分の髪の毛を見る余裕なんてなかった。
「あ、ちょっとごめんね」
慎兄さんが鏡を置いてレジのほうに歩いて行った。途中でズボンの後ろポケットからスマホを出したってことは、誰かから連絡が来たんだ。画面を見ているってことはメッセージだろうか。
(慎兄さんのほうこそ、恋人とかいないのかな)
そう思ったら、違う意味でドキッとした。
慎兄さんはこんなにかっこいいんだから恋人がいないはずがない。都会にいたときだってモテただろうし、そういえば高校のときは二海兄さんみたいなファンクラブもあったって聞いたことがある。
(そっか、そうだよね。こんなにかっこいいんだから、恋人の一人や二人いてもおかしくないよな)
って、さすがに二人は駄目か。でもファンはたくさんいそうな気がする。そういう僕だってファンみたいなものだ。
小さいときからずっと好きだけど、恋人になりたいなんて思ったことはないし告白する勇気もない。そもそも、僕みたいな男なんかに告白されて困るのは慎兄さんだ。僕は慎兄さんを困らせたいわけじゃない。
それでもずっと好きで居続ける僕は、芸能人に憧れるファンみたいなものだ。……うん、それなら好きでいても許してもらえそうな気がする。
慎兄さんはいまでも二海兄さんと仲がいいし、おかげで僕はほかのファンより少しだけ近くで見ることができる。それだけでも嬉しいし贅沢だと思わないとバチが当たる。
「ごめんね」
慎兄さんの声にハッとして、どうしてかドキッとした。「ごめんね」って、もしかして……。
「ここ片付けるから、あっちの椅子で待っててくれる?」
「あ……うん」
一瞬、用事が入ったからって言われるのかと思った。さっきのメッセージが彼女からのもので、このあと会うことになったから……そう言われるんじゃないかと思ってしまった。
(……僕、なんか変だ)
いや、変なのはいまだけじゃない。慎兄さんに再会して、髪の毛を切ってもらったあの日からずっと変だった。
部屋にいてもしょっちゅう慎兄さんの顔を思い出すし、髪の毛を洗うときなんて指の感触まで思い出す。朝、鏡で自分の頭を見るだけでドキドキして、何ならボーッとしているときも慎兄さんの顔や指を思い出してしまうくらいだ。
(いくら小さい頃から好きだからって、ちょっと変だよな)
これじゃあ慎兄さんに僕の気持ちを知られてしまうかもしれない。そんなことになったら絶対に引かれる。ドン引きじゃ済まないかもしれない。僕みたいな冴えない奴に、しかも男に何年も思われていたなんてどんな人だって嫌なはず。
(壱夜兄さんみたいに、綺麗でちゃんとした大人だったら別だろうけど)
でも僕は何の取り柄もやりたいこともない、実家に居候しているだけのどうしようもない男だ。こんな僕がお洒落でかっこいい慎兄さんをずっと好きだったなんて、そんなの気持ち悪がられるに決まっている。
「三春くん、どうかした?」
「……え?」
顔を上げたら、自分のコートと僕のパーカーを腕にかけた慎兄さんがすぐ側に立っていた。
「何だか深刻そうな顔してるから」
「ええと、」
「片付け終わったんだけど、大丈夫?」
「あ、の……」
心配そうな顔をしている慎兄さんが少し屈んで、僕の頬を指でするりと撫でた。まさかそんなことをされるなんて思っていなかった僕は、びっくりして手を避けるように体を引いてしまった。
すると、心配そうだった慎兄さんの顔が困惑するような顔に変わる。
「あの、僕、」
「もしかして、俺に触れられるの嫌だった?」
「あ……」
すぐにでも「そんなことありません!」って言いたかったけど、言葉が詰まってしまった。違うと言ったときに僕の気持ちまで知られてしまいそうで何も言えなくなる。そう思ったらますます返事ができなくなった。
「そっか。それならメッセージなんて送ってくれるはずはないか」
今度は少し寂しそうな表情に変わる。違うって言いたいのに、やっぱり言葉が出て来ない。
メッセージを送れなかったのは何て送ればいいかわからなかったからだ。ああでもない、こうでもないと考えすぎて、気がついたら何日も経ってしまっていた。
一週間が過ぎた頃、「髪を切ってくれてありがとうございます」でよかったんだと気がついた。それなら変じゃないしお礼を言うこともできる。でも一週間も経ってからお礼を言うのは変だと思って、結局何も送ることができないままになってしまった。
「それじゃ、今日も無理して付き合わせちゃったってことか。気がつかなくてごめんね」
かっこいい顔が寂しそうに笑っている。
(……そんな顔、しないで)
いつもかっこいい慎兄さんに、そんな悲しそうな顔は似合わない。そんな顔を僕がさせているんだと思ったら、それだけで自分が嫌いになりそうだ。
「それじゃあ、車取ってくるからちょっと待ってて」
「違うんです!」
パーカーを手渡してくれた慎兄さんの左手を慌てて掴んだ。やっぱりちゃんと言わないと後悔する。もしかして僕の気持ちがばれてしまうかもしれないけど、焦る気持ちのほうが勝った。
「あの、違うんです! メッセージは、何て送ったらいいかわからなかっただけなんです。毎日考えてたけど時間が経ってしまって、そしたら余計に何を送っていいかわからなくなっただけで!」
「三春くん?」
「それに! 慎兄さんに触られたくないとか、そんなこと絶対にないです! 今日だって切ってもらってすごく嬉しかったし、この前はシャンプーとかマッサージとかまでしてもらって、すごくすっごく! 嬉しかったです!」
だからそんな悲しそうな顔をしないでほしい。そう思いながら必死に話した。僕の様子に少し驚いたような顔をしていた慎兄さんが、すぐにニコッと笑ってくれてホッとする。ううん、それより胸がきゅんとしてしまった。
(か、かっこいい)
どうしよう。そんなかっこいい笑顔を見せられたら心臓が止まってしまう。それなのにもっと見たくて、思わず慎兄さんの腕を掴んだ手に力を入れてしまった。すぐに「しまった」と思って慌てて手を離そうとしたけど、今度は慎兄さんが僕の手をきゅっと握る。
「よかった。もしかして嫌われたのかと思って不安だったんだ」
「き、嫌うなんて、そんなこと、絶対にないです!」
「あはは、そっか。よかった」
よかったなんて、僕のほうこそいつもの笑顔に戻ってくれてよかったと思っていた。
「じつはちょっとだけ期待してたんだ」
「期待……?」
「そう。でも三春くんに好きだって言われたのは中学のときだし、あのとき三春くんは幼稚園生だった。さすがにもう好きでいてくれることはないかなと思ったりしたけど、恋人はいないって言ってたからね。あ、それとも好きな人はいたりするのかな」
「そ、そんな人いません! 僕はずっと慎兄さんが好きだったし、いまだって慎兄さんしか好きじゃないし!」
「そっか、ありがとう」
そう言って慎兄さんがまたニコッと笑った。あぁ、もうその笑顔を見られただけで僕には十分だ。
僕なんかにも笑顔を振りまいてくれる慎兄さんは、やっぱりかっこよくて大人だと思う。そんな慎兄さんのことが、僕はやっぱり大好きだ。
「三春くんに“慎兄さん”って呼ばれるの、久しぶりだね。昔と全然変わらないなぁ。……うん、やっぱりこれからも名前、こんなふうに呼んでほしいな」
「へ?」
僕の手を握っていた慎兄さんの右手が僕の頬に触れた。……違う。触れたっていうより包み込むって感じだ。そうして親指で僕の鼻の頭を撫でている。
「あの……?」
「こんなにかわいいから、てっきりもう誰かのお手つきになったかと思っていたんだけど……いや、二海たちが目を光らせてるから、そんなことはあり得ないか」
「え……っと、二海兄さんが、何か」
「ううん、何でもない」
そう言ってまたニコッと笑った慎兄さんの親指が、今度は僕の唇をつつって感じで撫でた。そんなところを触られると思っていなくて驚いたけど、それより首のあたりがぞわっとしたことのほうに驚いた。
「あの、慎、兄さん、」
「どうしたんですか」って聞こうとしたのに、また唇を撫でられて言葉が出ない。少しだけ開いてしまった唇を、もう一度慎親指が撫でる。すると前歯にコツンと爪が当たって、今度は背中がぞわっとした。
「俺に触られるのは嫌じゃない?」
「いや、じゃ、ない、です」
答えている間も親指が唇を撫でるから、うまくしゃべれない。でも、ちゃんと返事をしないとまた悲しい顔をさせてしまうと思って必死に唇を動かした。
「じゃあ、触られるのは好き?」
一瞬、何て答えていいのか迷った。触られるのは嫌じゃない。髪を切ってもらったときも、いまこうして触られているのも嫌じゃなかった。それどころかもっと触ってほしいと思っている。
(これって、好きってこと、だよね)
「好き」と思うだけで顔が熱くなった。
「ね、好き?」
慎兄さんの笑顔と言葉に首までカァァと熱くなる。そういう意味じゃないとわかっているのに心臓がバクバクしてきた。
僕は緊張で唇が震えるのを感じながら「す」と唇を突き出した。そうしたらまた親指で唇を撫でられて首筋がゾクゾクした。思わず口を閉じそうになったけど「ちゃんと答えないと」と思って「き」と唇を横に広げる。そうしたら爪の先がまたコツンと歯に当たって頭がグルグルしてきた。
「じゃあ、俺のことは好き?」
「え……?」
一瞬、空耳かと思った。すぐ目の前にいる慎兄さんは少し笑っているけど真剣な目で僕を見ている。
(そういう顔の慎兄さんも、ずっと好きだった)
やっぱり僕は慎兄さんが好きだ。昔からずっとずっと好きだった。でも、そう答えていいのかわからない。気持ち悪いと思われそうで言葉が出なくなる。
「三春くんは、俺のこと好き?」
僕の唇を撫でながらニコッと笑う慎兄さんがあまりにかっこよくて、バクバクしていた心臓が止まりそうになった。どうしよう、どうしよう。焦っている間も好きだという気持ちが膨れ上がっていく。
「ね、好き?」
「す……好き、です」
囁くような声だったけど、ついに言ってしまった。言った途端にまた心臓がうるさくなる。
「ありがとう。俺も好きだよ」
「ぇ……?」
いま、すごいことを言われたような気がする。そういえばさっきからいろいろ言われているけど、心臓も頭も大変なことになっていてよくわからない。若干目を回していた僕に、ニコッと笑った慎兄さんが右側の頬にチュッとキスをした。
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