PM25時の魚たち

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  PM25時00分、水槽の中の魚は、十五分だけ「彼」になる。  そのことに気付いたのは、二年前の今日くらいだったと思う。なかなか寝付けない熱帯夜の中を泳ぐ魚は、確かに「彼」と同じ目をしていた。ぼくが「彼」に話しかけると、魚は決まって泡を出した。それは大きな泡だったり、小さな泡が集まった泡だったりとまちまちだけれど、ぼくの言葉に「彼」が反応しているのは間違いなかった。  15分後の25時15分になれば、「彼」はただの魚に戻ってしまう。ぼくの問いかけに答えることもせず、ただ15リットルの海を泳ぐ魚。25時15分からは、まるでぼくが「彼」に代わって魚になったみたいに、何も「彼」にも、「彼」以外の人間にもぼくの声は伝わらない。  幻覚とか妄想とかじゃなくて、必然と魚は「彼」なのだと悟った。  「ねえ、溺れるときって、静かなんだって。だから、みんな気づかないらしいよ。すぐ近くにいても」 テレビから流れてくるニュースはまたも水難事故だった。静寂はぼくの声で一旦やむ。  引っ越しの時に母親がおいていった魚に成り代わった「彼」は相槌を打つかのような泡を吐き出し、また黙り込んでしまった。今度は蛙の声がバックグラウンドミュージックとして流れ込む。  惰性に任せたテレビをようやく止めて、ぼくは立ち上がる。中学生二人が死亡―というキャスターの声はすぐに天気予報に変わっていくのだと思う。  むき出しの足で部屋をうろつく。冷蔵庫の中のソーダ色の氷塊を口にくわえながら、また「彼」の近くに座り込む。  「彼」の水槽にもすりつぶした餌を投げ入れ、ぼくは告げた。  「明日、死のうと思ってんだよね」 まるでコンビニ行ってくる、と言うみたいに、ぼくは「彼」に告げた。  水面に顔を出してみっともなく口を開閉させていた「彼」は、つぶらな瞳でぼくを見つめ、次の言葉を待っている。  「明日、予定日でさ。」  明日は、ぼくの安楽死予定日。  ぼくらが生まれる8年前に、この国で安楽死は認められた。昔は審査も厳重だったが、今では申請すればだれでも認可されるといわれるほど、審査は雑になった。予定日になれば、安楽死センターに集められて薬物注射による死を与えられる。20歳になれば、誰でも平等に死を望むことができるのだ。命の価値は平等ではないけれど、せめて死だけは。  そして、明日は20歳になったぼくの安楽死予定日。    「明日死のうと思ってんだよね。」 どうでもよくないことをどうでもいいように、あいつは言った。  止めないんだね、と言うあいつの顔は疲れ以上の何かをあらわしているようには見えなかった。  「死ぬなよ。」  俺は、そうは言えない。 だって、あいつが死ぬのは俺のせいだから。 夏休み終わるな、今日で地球滅亡してくんねぇかな、とあいつと帰ったアスファルトの分かれ道で、俺だけが死んでしまったから。 自転車に乗った俺は、暗闇の中で、10トントラックに容易く押しつぶされたのだと、あいつから聞かされた。俺が死んだと気づいたのは、ガラス越しのあいつの顔を見てからだった。魚になったんだと、理解するのに時間はかからなかった。 ただ、あいつだけは人間のまま、ずっと二年前の今日を泳いでいる。 「死にたいね。」「生きるの辛いね。」 いつも言うのはあいつのほうで。 「一緒に死のうよ。」 いつも真面目な顔をして小指を差し出すのはあいつのほうだったのに。 なのに、二年前の今日から、あいつだけが死ねなくて。だから明日、あいつは死ぬんだと思う。臆病なあいつは、安楽死という勇気を借りて、明日死ぬのだと思う。 「なんで死のうと思ったんだっけ。」 あいつの指が水槽のふちを撫でた。  詳しい理由はよくわからない。ただ、死ねば、あいつと俺が閉じ込められた水槽から、抜け出せると思ったから。人間に見限られて、海に放ってもらえるかもしれなかったから。 俺らは人間界に入り込んでしまった魚たちだ。ここが海じゃないことにも気づかないまま、沈んでゆくシーラカンス。  水槽の中の深海魚は、パシャパシャなんてもがかない。ただ静かに底へ向かう。   明日、人間界から、魚は追放される。  PM25時の魚たちは、もう帰らない。
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