この先は行き止まりです。

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 普通の住宅街を歩いていると普通の十字路に差し掛かり、右側に「この先は行き止まりです」と書かれた看板が立っていた。空は曇っていて、まだ午後の三時なのに辺りは薄暗い。この辺りにいる人は全員が今日は薄暗いなと思っている筈なのだが、僕は自分だけが世界でこの薄暗さを感じているんじゃないだろうかと不安になった。  僕が行き止まりの道を進もうと思った理由は、なんとなくだった。最近の僕は暇さえあれば散歩をしていて近所の道をひたすらに憑りつかれたように歩いていたのだが、こっちの道は通ったことがなかった。  「この先は行き止まりです」と書かれた看板は以前はなかった気がするので恐らく最近立てられた看板なのだろう。行き止まりへと向かう道は、幅三メートルもないので車は通れない。車は通れないし、歩いている人も自転車に乗っている人もその道にはいなかった。左右は高い塀が続いていて、その向こうに何があるのかはここからは見えない。目の前に真っ直ぐ続く狭い道を、僕はノロノロと歩いた。  十歩ほど歩いたところの右側の塀に、落書きがしてあった。スプレーで英語の字が長々と芸術的に描かれていて、これは僕の悪口が書いてあるのではないかと思う。英語はほとんど読めないが、絶対にここには自分の悪口が書いてある。「お前にはこの先なにもいいことが起こらない。お前は不幸なまま死んでいくんだ」そんなような内容に違いない。  そこからまた十歩ほど進んだところには動物の糞が落ちていて、恐らく中型犬の糞だ。ひび割れたコンクリートの上に干からびていて、これが人間のうんこだったら嫌だなと考える。  何かが腐ったような、嫌な匂いが漂ってきた。  百メートルほど進んだところが白くて高い壁に阻まれていて、どうやらここが行き止まりだったようだ。そう思ったが、その白い壁には扉がついている。  行き止まりとは書いてあったけど、なんだ、扉があるじゃないか。でもあの扉の向こうは誰かの家の裏庭なんかに通じているかもしれないし、どこかの会社の敷地とかかもしれない。  この扉を開けようと思ったのは、なんとなくだった。ドアノブには回して開けるタイプのものと傾けて開けるタイプのものがあるが、この扉についているのは傾けるタイプのものだった。僕はソッと傾けてみる。  ここ数か月の間、僕は不幸続きだった。実家から四百キロほど離れた地域にある大学へ入学して一人暮らしを始めた頃の僕はこれから楽しい生活が待っているんだと期待していたのに、そうはならずボロボロになった。  まず高校一年生から付き合っていた彼女の浮気がわかって別れた。わざわざ彼女に合わせて彼女が住む予定だった近くの大学へ進学したのに、そこで複数人と浮気をしていて乱交なんかもしていたらしい。  また大学で仲良くなった友人と金のことでトラブルになって、簡単にいうと僕が貸した金をそいつがなかなか返さずに口論になったという感じなのだが、そいつは金を返さないどころか「あいつはクスリをやっているから関わらない方がいい」というデマを流して僕はみんなから避けられるようになった。嫌になって大学は半年ほどで辞めた。  その他にも家に泥棒が入ったり、電車で痴漢の冤罪をかけられたり、下校中の小学生からなぜか泥を投げられたり、目にゴミが入ったりし、精神的にだいぶまいってしまった。  家の中でジッとしていても憂鬱な気持ちが膨らんで絶望的になり頭も破裂しそうになるので、散歩をするようになったのかもしれない。外を歩けば気分が晴れるというわけではなく、歩いていてもネガティブな思考がグルグルと巡るのだが、室内に籠っているよりは多少頭が軽くなる気がしていた。  狭い、汚い道の先に白くて高い壁があって、そこに扉が一つついている。この扉の向こうに健やかで明るい未来が待っていないだろうか、そんな馬鹿みたいなことを考えながら、ソッと開けてみた。  中は部屋だった。しかも見覚えのある部屋だった。  実家のリビングだった。半年ほど実家には帰っていないが、置いてある家具とかがその時よりも少なく、全体的に部屋は綺麗で新築の匂いみたいなものも感じる。端の方に小さなベッドがあってそこを覗き込んでみると、生まれて間もない赤ん坊が寝ていた。  実家まで四百キロほど離れている筈なので、もしかしたらあの扉を潜ることでどこでもドアのようにワープしたのかもしれない、そう思ったがそれにしては不自然だ。五歳くらいの時に僕が壁に描いた落書きもここにはなかったし、あの赤ん坊は一体誰なんだ。  不思議に思っているところでその赤ん坊が泣き出し、部屋に母親が入っていたが今よりも随分と若い見た目をしていた。若い母親は泣き出す赤ん坊を抱えると床に寝かせ、オムツを替え始めた。僕のことは無視をしている、というか僕の存在にすら気づいていないようである。  どうやらここは、自分の過去の世界のようだ。あの扉を開けて中に入ることで、自分が赤ん坊の頃へタイムスリップしたのかもしれない。過去の世界の住人である母親からは僕の存在は認識できないみたいで、僕だけが一方的に過去の一場面を映像を見るようにして認識できるみたいだ。  話しかけても母親は反応せず、透明人間になったような気分になった。  母親は赤ん坊の頭を撫でたり、愛おしさの籠った目で見つめたり、可愛いわねと呟いたりせずに、赤ん坊の元からサッと離れ恐らく洗濯物でも干しに行ったのだろう。母親が部屋を出て行くと0歳の頃の僕もその部屋自体もフッと幻が消えるように見えなくなって、僕は元いた狭い、汚い道の上に立っていた。
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