この先は行き止まりです。

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 実家の部屋は消えてなくなったが、白くて高い壁と扉は残っていて僕はその扉の少し先に立っていた。道はまだ続いていて、どうやら行き止まりはまだ先にあるようだ。  母親、父親は僕がいなくなって今は二人で生活している筈だがどうしているだろうか、と若い母親を見たことで僕は両親のことが浮かんでいた。  どん底の気分を味わい続けている今、僕は実家の両親を頼れないでいた。両親は僕が遠くへ行ったことを喜んでいるような気がするからだ。現に大学を辞めても一人暮らしを続けている僕へ何も連絡をよこさず心配しているような気配はなかった。誕生日にも何も連絡はなかったし、そもそも一緒に住んでいる時から誕生日を祝ってもらったことはなかったし、大学を辞めてからは仕送りもされなくなり、僕は単純作業のアルバイトのみでなんとか生活費を稼いで生活している。  十メートルほど先に、同じような白くて高い壁がまた立ち塞がっていた。十メートルなので、だいたい十歩ほどでその壁まで辿り着くことができる。途中の左側の壁に血のようなものがべっとりと付着していて、その下の辺りの地面に吐瀉物のようなものが干からびていた。蠅が集っている。塀の上には右の前足がない黒猫がいて、僕のことをジッと見おろしていた。  この道は、進んで行くにつれて臭くなっていく。何かが腐ったような強烈な匂いだ。  ノロノロと壁まで近づき、また同じような扉がついていた。この扉を開けると、また過去の世界へと行けるのだろうかと僕は思う。  僕は二枚目の扉のドアノブを傾け、ゆっくりと押してみた。中は学校だった。間違いなく僕が通っていた四年二組の教室である。  どうやら国語の授業中らしく、僕はいつの間にか参観日の時の保護者のように教室の後ろに立っている。眼鏡をかけた国語の先生は、顔はしっかり覚えているのだが名前までは忘れてしまっていた。特別生徒を褒めたり叱ったりしないような、ただ淡々と授業のみを進めるような先生だった。あまり生徒と深く関わりたくないと思っていたのかもしれない。  教室の後ろの壁には、僕を除いたクラスの生徒の人数分の紙が並べて貼ってある。裏面はザラザラしていて表面はツルツルしている、習字の時のみに使う紙だ。  その一枚一枚に、希望、という字が書かれてあった。小学生の時に僕が学校を休んだのは一度だけだったと思うが、その日の授業で僕以外のクラスメイトは筆に墨汁をつけて、希望という小学四年生にしては少し難しい字を一画一画懸命になぞったのだろうと思う。僕は風邪で休んだのだったが、次の日学校へ行くと教室の後ろの壁一面に希望という字が綺麗に並んでいた。僕の希望だけが見当たらなかった。  いま教室の中ではしっかりと授業を受けているものや窓の外を眺めるものや居眠りをしているものがいる。十歳の僕は窓側の一番前の席だった。この頃僕は、初恋を経験している。初恋の相手は同じクラスの斎藤さんという背の高い、顔の細い、綺麗な人で僕は授業中や休み時間にチラチラと彼女の方を見ていたなと思い出す。話しかけられたことは一度もなく、小学校を卒業して斎藤さんは別の中学に上がったのでそこから会うことはなかった。  斎藤さんはだいたい教室の真ん中くらいの席にいて、ちゃんと先生の話しを聞いているようだった。僕は懐かしく思いながら斎藤さんの隣まで歩いて顔を覗き込んでみた。やはり過去の住人であるクラスメイトや先生からは僕のことは見えていないようで、堂々と斎藤さんの顔を覗き込むことができた。綺麗な顔を見ながら、斎藤さんは今頃どこで何をしているのだろうかと考える。  斎藤さんの前の席には名前は覚えていないが鼻が豚みたいな女が座っていて、斎藤さんはその豚鼻の肩をトントンと叩いた。豚鼻は振り返って「なに?」と斎藤さんに小声で尋ねる。すると斎藤さんは何も言わずにノートの切れ端を渡した。 〈窓側の一番前の席にいる男、なんて名前だっけ?〉と切れ端にはそう書かれていた。窓側の一番前にいる男、というのは十歳の頃の僕だ。 〈名前、私も覚えてない。あいつがどうかしたの?〉  豚鼻はノートの切れ端にそう書き足して、先生の目を気にしながら斎藤さんにソッと返す。  斎藤さんは無言でまた切れ端の余白に何かを書いて豚鼻に渡したのだが、そこにはこう書かれてあった。 〈あいつ、私のことチラチラと見てきて気持ち悪いんだけど〉  僕の右目から一粒涙がこぼれたところで教室は消えて、また元いた道に戻ってきていた。左右に高い塀が続いている、狭くて汚い道である。僕たちの過去には知らないままでいた方が幸せだったことがいくつも潜んでいるのだかもしれないと思った。  何かが腐っているような匂いはどんどん強くなりこれ以上この道を進むことに対して不安を覚えたが、先にまた白くて高い壁があったので僕は行ってみることにした。  0歳の自分、十歳の自分を目にした僕は、三枚目の扉を開けようか迷ったが、結局開けることに決めた。
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