この先は行き止まりです。

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 自分は三十歳で死ぬ、しかも十九歳の自分に首を絞殺される、という未来がわかってしまい僕は憂鬱な気分がさらに肥大して、生きる気力ももちろん湧かずに死んだ目でしばらく過ごした。  アルバイトへ行っている時と寝る時以外のほとんどを散歩して過ごした。外を歩けば気分が晴れるというわけではなく、歩いていてもネガティブな思考がグルグルと巡るのだが、室内に籠っているよりは多少頭が軽くなる気がしていた。  あの行き止まりまで続く狭くて汚い道を一度だけ進んでみたことがあるのだが、そこには百メートルほど進んだところに白くて高い壁があるだけで扉はついていなかった。もう0歳の自分にも十歳の自分にも二十歳の自分にも三十歳の自分にも出会えないのだな、と僕は思った。  ただ無気力な生活をしているだけでも、時間は流れていく。一年がすぎ、また一年がすぎ、あっという間に月日は経っていった。  僕は二十七歳になっていた。十九歳の自分が来て殺されるまであと三年しかない。これは本当に決まってしまった運命なのだろうかとふと思う。十九歳の時の自分が現れたからといって僕は殺されるだろうか。思えば先に手を出したのは三十歳の時の僕なので、こっちから手を出さなければ殺されることはないんじゃないか。  いや、こんな自分はやっぱり三十歳くらいで死んだ方がいいのかもしれない。そうも思う。生きていたってなにも楽しいことがない。死んでしまった方が楽なのではないか。  いや、僕はまだ二十七歳だ。大学の時に不幸続きで憂鬱になってそれが今も続いているが、もしかしたら未来には何か楽しいことがあって幸せに過ごせるかもしれない。  いや、やっぱり死んだ方がいいような。いや、やっぱり生きていた方がいいような。僕はぐるぐるぐるぐる考えて結局結論が出せないままで三十歳を迎えた。  汚い部屋で、つまらない生活を相変わらず送っている。どうしても気力や意欲のようなものが湧かずに、絶望的な気分を味わいながらも生きている。生きていくということは本当に重要なことなのだろうか。重要かどうかはどうでもいいかもしれない。自分の意志が大切なような気がする。これから自分がどうなるのか僕にはわからない。わからないんだ。これ以上の不幸な出来事が訪れて、どん底よりもさらに下の地獄のような気分が待っているかもしれないし、これまでの不幸を全て吹っ飛ばすような幸福な出来事が待っているかもしれない。  やっぱり死んでしまおうか、十九歳の自分にあえて殺されようか。あの時みたいに十九歳の自分の首をこっちから先に絞めてしまえば、あまり力はいれずに締めてしまえば、彼はきっと首を絞め返してきて僕を殺すだろう。そうしてしまえば、自殺をするより簡単なような気もする。  でも、やっぱり一応は生きていた方がいいんじゃないだろうか。未来に僕のことを友人や恋人として認めてくれて、その人とともに贅沢はできないが穏やかな暮らしをしていけるかもしれない。そんな希望は、もっちゃいけないだろうか。でも思うのは自由じゃないか。  僕は近所の道を散歩しすぎて、近所の子どもたちから散歩おじさんと呼ばれ親しまれている。僕は散歩おじさんとして近所の道を歩き続けて、散歩おじさんとして寿命を全うしようか。突然に閃いた。思えば僕は毎日十年以上も欠かさず、台風の日でさえ散歩をしていた。「やあ、散歩おじさん、こんにちは」そう子供から声をかけられ、「やあ、こんにちは」と僕は返す。不審者なんじゃないかと怪しまれた時期もあったが、僕が本当にただ歩いているだけなのだと知り、もうこの辺りじゃ誰からも警戒されなくなった。  ある日、僕の部屋に十九歳の僕がやってきた。「僕は散歩おじさんとして生きていく」そう伝えると、十九歳の僕はキョトンとした顔をした。
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