「待って」と言われれば待つのだが

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「待って」と言われれば待つのだが

「待って」と言われれば待つのだが。 タタッ! タタッ!    タタッ! タタッ! カノジョは前を走るオレに爪を立てて飛びかかろうと一心不乱に追いかけてくる。 だが、追いかけるスピードは明らかに以前より減退していた。 カノジョの名はリサ。 このサバンナ一帯を支配するライオンの群れのメスのリーダーだ。 最近、その群れを統率するオスのリーダーが寿命で死んだ。 求心力を失った一団をまとめようとリサは必死だった。 年下のメスたちは生まれたばかりの赤ちゃんライオンの子育てで忙しい。 細いインパラのオレ一頭でも、確実に仕留めて群れに持ち帰りたいところだろう。 しかし、オレだって易々と捕まるインパラじゃない。 タタッ! タタッ!       タタッ! タタッ! リサの前を勇敢に風を切って駆け抜ける。 オレはいつまでもリサに追われていたいのだ。 「この時間が永遠に続けばいい」とさえ思っている。 オレとリサだけの生死を賭けた壮絶な追いかけっこの時間。 ジリジリと魂を焦がし、ガリガリと大地を削るように蹴って走る特別な時間だ。 「リサ! どこまでもオレを追いかけてこいッ」 オレは心の中でそう叫んだ。 リサと初めて出会ったのは二歳の頃だ。 まだ狩りの技術を習得できていないくせに、リサはやる気だけは一人前だった。 オトナのメスたちにくっついて最前線で陣取り、誰よりも早く獲物へとダッシュ。 テンションが上がり過ぎてフライングを繰り返しては狩りを台無しにした。 「あれはお前と同い年だな。よく見てな。そのうち立派なメスライオンになる」 そう予言したのは顔見知りのシマウマのオジさんだった。 そのうちオレは、何度もリサに追いかけられるようになった。 のんびりと草を食べていると、いつも気がつけば仲間たちがいる場所から遠くはぐれてしまっていた。 すると、背後の茂みからザワザワッと足音が……! 振り返ると、リサの鋭い目が光っていた。 オレが逃げ出すのとリサが茂みから飛び出すのはほぼ同時。 一目散に駆け出すオレを見て、離れた場所にいた仲間のインパラの群れも逃げ出した。 全力疾走で逃げるオレたちをうんざりとした顔でただ見送るオトナのライオンたち。 リサがいつもやらかすスタンドプレーだった。 オレは何とかリサの追跡を振り切って難を逃れた。 群れに帰ってリサはこっぴどく叱られただろうが、オレだって怒られた。 「ヨシ、あんたがぼんやりしてるから目を付けられるのよ!」 母さんの姉インパラは甲高い声でオレにまくし立てた。 伯母は何度もオレに「弱肉強食はサバンナの厳格な掟だ」と諭すように語った。 リサに追いかけられ、オレもそのことは身をもって理解した。 この掟にだけは決して逆らうことはできない。 オレが今まで生き延びられたのは、若い頃にリサに何度も追いかけられて飛躍的に脚力が鍛えられたおかげだろう。 あれからリサはシマウマのオジさんの予言通り、メスライオンのリーダーの地位にまで昇りつめた。 オレはいつもリサを遠くから眺めていた。 憧れの目で。 このサバンナの頂点に君臨し、丘の上に堂々と立つリサ。 その引き締まった足の筋肉の隆起が荒野の西日に照らされる瞬間は、ついうっとりと見とれてしまうほどだ。 また、乾いた風に吹かれるゴールドベージュの艶やかな毛並みは息を呑むほどに美しかった。 神々しいリサの姿を見上げるオレは、大所帯のインパラの群れの中のしがない一頭。 そんなオレだったが、カノジョのことが大好きだった。 できるなら何度でも追いかけられたいと思った。 伯母にまた後で怒鳴られることになっても。 相手は狩りの名手に成長したリサだが、ギリギリでかわせる自信があった。 猛烈な追い込みをかけられても、オレには急減速のV字ターンという得意技があった。 オレだってサバンナで日々逃げる技術を磨いてきたのだ。 この大技をリサの目の前で見せつけ、一目置かれるインパラになりたい。 それがオレの夢だった。 ライオンは主にメスだけの集団で狩りを行う。 その指揮をとるのがリサの役割だ。 だが、成長するに従ってオレがリサに直接追われる機会は少なくなった。 まだ幼かった頃が懐かしい。 数々の思い出を脳裏に浮かべながら、オレはリサの追跡から逃げていた。 タタッ! タタッ!          タタッ! タタッ! それは久々の追いかけっこだった。 出会いから六年の歳月が過ぎ、オレもリサも少々老いた。 リサの猛烈なダッシュは影を潜め、持久力もなくなった。 オレも結局「伝説のV字ターン」をリサの前で披露するチャンスがないまま、今では鋭い切り返しが難しくなってU字ターン程度になっている。 ただ、リサの追跡をかわせるだけの脚力は残っていた。 駆けても駆けてもリサの足音が接近して来ない。 タタッ! タタッ!             タタッ! タタッ! リサのスピードはさらに落ちたようだ。 インパラとしては喜ぶべきことだが、どうしても寂しさがこみ上げてくる。 リサとの距離はさらに開いていくようだ。 オレは背後のリサを振り返りたくなった。 「待って」と言われれば待つのだが……。 だが、リサはオレのことなんか覚えていないだろう。 もちろんリサに一目置かれるインパラになど、とうとうなれなかった。 今も昔と変わらず見つかれば追いかけられるだけのただの細い獲物だ。 「しかし……」 と、オレはまだ期待している。 リサがオレのことを認識していることを。 同じ年に生まれ同じサバンナで育ち、切磋琢磨してきた幼なじみであることを。 背後で息を切らしてリサが走る速度を一気に落とした。 「ハァ、ハァ……」と力無いリサの呼吸だけが後ろから聞こえ、次第に遠くなっていく。 オレたちの時代が過ぎようとしていることを肌で感じた。 もうあのヒリヒリとした体の芯までヤケドするような駆け引きの時間は戻っては来ない。 オレは一度だけリサを振り返り、悔いを残さないように全力で荒野を駆け抜けて逃げ切った。 サバンナには雨季と乾季の二つの季節しかない。 なので、別れの季節も決まっていない。 強いて言えば年中だ。 オレたちが住むサバンナは毎日がこの世の楽園であり、同時にあの世へと続く戦場だった。 別れの日はいつも突然にやって来る。 その日、朝からハゲワシの鳴き声がうるさかった。 オレたちが草を食べている間にも、さらに数羽が飛んで来た。 どこかで大型動物の死骸でも見つけたのか。 それとも……? 気になってオレはハゲワシたちの集まる場所へと向かった。 「!?」 オレは絶句して、立ち止まった。 高い木の枝にとまったハゲワシたち。 ヤツらが首を垂れて見下ろす先に、リサがいた。 木陰の中、太い幹に寄り添って身を丸めているリサ。 風下にいるオレは腐敗しかけた血肉の匂いを感じとった。 リサは深手を負ってまともに歩くこともできないのだろう。 ハゲワシがまた一羽飛んで来て木の枝にとまったが、リサは横たわった木陰から立ち上がろうともしなかった。 きっと、無理をして巨体のゾウやバッファローを狙ってしまったのか? そこまでして仲間に食糧を与え、群れを守ろうとしたのか? 呆然と立ち尽くすオレに気づく様子もないリサ。 そのオレもまた、背後の茂みに隠れていた敵の存在に全く気づいていなかった。 ガサガサッと足音が聞こえたかと思うと、直後にオレの右の後ろ脚に激痛が走った。 「しまった!」 何者かに噛みつかれた。 反射的に狙われた後ろ脚を跳ね上げ、敵の第一撃に応戦する。 敵は反撃を警戒してすぐに飛びのき、距離を取った。 振り返ると、鋭い眼光のチーターがオレを睨んでいた。 最近この周辺を徘徊している若いオスのはぐれチーターだ。 オレは身構えながら、ダメージを負った後ろ脚の具合を確認した。 傷は深くない。 おそらく逃げ切れるだろう。 「でも……?」 傷ついたリサをここに残してはいけない! リサのことに一瞬意識が傾き、集中力を欠いた。 その隙をつき正面から突進してくるチーター。 「うッ!」 喉元をガッシリと噛みつかれ、オレは身動きがとれなくなった。 「やられた……」 息が苦しい。 狂ったようにオレは首を左右に振った。 それでもチーターは牙を離してはくれなかった。 それどころかグイグイと牙がさらに深く突き刺さっていくようだ。 きっと体格では互角だろう。 しかし、オレは若いチーターの勢いに完全に呑まれてしまっていた。 その時だった。 バサバサバサッ! 大きな羽音を立てて木に集まっていたハゲワシたちが一斉に地面に降り立った。 そして、オレとチーターを取り囲んだのだ。 「ガーッ! ガーッ!」とチーターを威嚇するハゲワシたち。 注意をそらされ、苛立つチーター。 さらにハゲワシたちは羽を広げてバッサバッサと揺らし、チーターの気を散らす。 「シャー!」 ついに、チーターがオレの喉元から牙を抜いた。 ハゲワシたちを追い払おうと前足の爪を立てて飛びかかるチーター。 ハゲワシたちはその攻撃をフワリと宙に浮いてかわす。 「これは一体どういうことだ?」 オレはその不思議な攻防に目を疑った。 ハゲワシたちはこの若いチーターがオレを仕留めた後、リサにも手を出すだろうと警戒しているのか? それは、狙っている獲物を横取りされたくないから? しかし、そうではないような気がした。 もしかすると、ハゲワシたちのリサに対する敬意ではないか? オレはそう思った。 優秀なハンターだったリサのおかげで、ハゲワシたちは今まで随分おこぼれにあずかってきたはずだ。 そのリサが瀕死の重傷を負っている現場を新参者のチーターに荒らされ、追い払いたくなったのではないか? どちらにしても、インパラのオレを救い出そうとしたわけではなさそうだ。 いや、まさかリサがハゲワシたちに目配せして「助けて」と訴えたのだろうか? ハゲワシたちが執拗に威嚇を続け、ついに若いチーターは戦意を喪失した。 空を飛べるハゲタカを相手に通用する攻撃の手段は一つもなかった。 すごすごと退散する若いチーター。 もうオレには一瞥もくれずにどこかへ姿を消した。 すると、ハゲワシたちも「一仕事終えた」という顔つきで一羽、また一羽と飛び去っていった。 オレは信じられない思いでヤツらを見送った。 ハゲワシたちはオレを助けてくれただけでなく、リサがいるこの場所までオレを導いてくれたのだ。 住み慣れた荒野に一陣の風が吹き抜ける。 静かな木陰に残されたのはオレとリサだけだった。 「やあ」 オレは今までにないほど重く感じる体を引きずり、リサの隣に寝そべった。 喉元にチーターの牙が深く刺し込まれたせいか、声が出しにくい。 体のどこかで噴き出した血の味がする。 オレの命もきっとそう長くないはずだ。 「久しぶり」 リサがポツリと呟いた。 オレは胸が熱くなった。 リサは覚えていてくれたのだ。 細くちっぽけなインパラのオレのことを。 「あなたと追いかけっこしていた頃が一番楽しかった」 リサの言葉に、オレは長年抱いていた夢が叶ったと思った。 それがリサの最期の言葉になった。 もうオレを追うことがなくなったリサが隣にいる。 まだ残るリサの体温がほんの少しだけオレに伝わってくる。 もう逃げる必要がなくなったオレはゆっくりと目を閉じた。 まぶたの裏に生まれ変わった未来を映しながら。 次は追うだけ、追われるだけの運命じゃなければいいと思った。 今度、生まれ変わったら……。 (おわり)
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