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プロローグ
そいつは突然、なんの前触れもなく僕の前に立ち塞がった。
「なぁあんた。ちょっと俺に誘拐されてくんない?」
そいつの手にはカッターナイフがあった。
けれど僕は、そいつが着ている青いパーカーにプリントされたゴシック体のフォントばかり見つめてしまった。
「え、いやです」
恐怖も動揺も不安も緊張も、僕の中に渦巻く全てはうまく表に出ていかない。
案の定、反応の薄さにそいつは目を見張る。
「いや、嫌とかじゃなくて。お前脅されてんだよ俺に」
そいつは一瞬考えてから、声をワントーン低くしてカッターナイフを僕に近づけた。鋭い刃先は僕の首を狙っているようだ。
刺さったら痛いだろうけど、後ずさろうにも背後はトイレの壁。
こういう時、『どうして僕が……!』なんてモノローグを入れてしまいがちだ。でも今回は全くそうは思わない。こいつの狙いは正しい。
同じ制服を着た大荷物の集団が東京駅新幹線乗り場の改札から列を成して出てきたらそれはもう、誤魔化しようもなく修学旅行生だ。
さらに地下の団体集合用広場で点呼を取るその集団を抜け出し、すぐ近くの綺麗なトイレを避けて人気の少ない離れたトイレに駆け込んだ僕は格好の獲物で、かつ僕の容姿はガリガリのひょろひょろ、長い前髪が陰気な眼鏡モブときた。
だからこいつのターゲットの選択は間違ってない。
けど、誘拐っていうのはどういうつもりだろう。
カツアゲなら100点満点の大成功を収めているはずなのに。
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