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『ゴルド病の治療薬の、支給を開始する』
「ロイ!これで一安心ね」
とある休日の午後。
ロイがリビングのテーブルに向かってくつろいでいると、
エマが教会からのお触書を嬉々として見せてきた。
しかし、ロイはその文字をいぶかしげに見つめていた。
「エマ、少し貸して」
ロイがそう言うと、エマは持っていたお触書をロイに手渡した。
預かったお触書は何枚かに渡っていた。
1枚目には、治療薬が完成し、その支給を開始する旨が記されている。
だがやはり、ロイの心は晴れないままである。
―なぜ、『支給制』なのか?
基本的に、薬は薬屋で購入するのが習わしだったのだ。
ゴルド病に限って支給制を取る理由がロイには理解できなかったのである。
だが、その理由は最後のページに辿り着いた時、判明した。
『なお、治療薬には非常に希少な動植物を使用しており、薬の量には限りがあります。そのため各家庭の地位に応じて、支給量を調整します。支給順に関しては…』
「ロイ…?」
その時のロイはきっとかつてないほど険しい表情をしていたのだろう。
当時のロイ達の地域は、教会への貢ぎ額によって、地位が決まっていた。
それはつまり、貧乏かどうかで地位が決まっていたということだ。
そして、当時のロイとエマの地位はお世辞にも高い方ではなかった。
ロイは、エマの体を引き寄せると、静かに抱きしめた。
もしも、治療薬が一つしか支給されなかったら…エマのために使おう。
そう固く誓っていた2週間後だった。
――
「マリアのところも、一つだけだったって…」
「そうか」
エマは、付き合いのある人たちから、治療薬の状況を聞いていた。
しかし、やはりというべきか、
自分たちと同じ地位の家庭は、せいぜい貰えても一つだった。
「ひとつでも、もらえたら感謝しないとね」
エマは、気丈な笑みを浮かべた。
ロイたちの番はまだ、回ってきていない。
だが、おそらくは一つ。
その使い道は慎重に決める必要がある。
「エマ、治療薬のことで話があるんだ」
「急に何…って、それどうしたの?」
「?」
その時、エマがロイの足首を見た。
「これは…」
それはネズミの噛み跡だった。2週間前にはなかったはずである。
おそらく、寝ている間にかまれたのであろう。
「多分、寝ている間に…」
その時、視界が大きく反転した。
「ロイ!」
エマの声が遠ざかる中、ロイの視界は深い暗闇の底に沈んでいった。
――
「ロイ…」
「エマ」
何時間眠っていただろうか。すっかり辺りは暗くなっていた。
ベッドの横の丸椅子には、何かが書かれた紙が置かれていた。
「これは…」
「町医者さんが来て、あなたを診察してくれたのよ」
「…結果は?」
エマは、少し逡巡したのち、ぽつりと呟いた。
「ゴルド病…だって」
後から判明することになるが、それはネズミらしい。
彼らの噛み跡を通じてのみはじめて、ゴルド病は感染するのだそうだ。
その時のロイの動揺は、筆舌につくしがたい。
けれど、その後のエマの言葉は、彼の動揺をさらに強めた。
「大丈夫よ、もう少しじゃない」
「何が…」
「治療薬が、もう少しでくるわ」
「それは君の…!」
それ以上、ロイは何も言えなくなってしまった。
エマが、瞳に涙を浮かべながら、ロイの口元に指を添えていた。
「だから、安心して…?」
エマが微笑む。
ロイは、彼女に背を向けると、肩を静かに震わせた。
――
だから、といっていいかわからないが、あれは奇跡としかいいようがないだろう。
「ロイ!!見て!」
あの日のエマは、ロイが人生で見た中で一番といっていいほど輝いていた。
「二つもらえたの!!治療薬!」
その時の計り知れない安堵を、どう表現すればよいだろう。
この時ばかりは神を信じざるをえなかった。
「…ゆっくり飲んでね」
エマから渡された白く丸い錠剤を、ロイは水で流し込む。
この中に、希少な動植物が入っているらしいが、実感には乏しい。
「神様は、見てるんだな」
「あら、信じてなかったの?」
そんな軽口をエマと交わしながら、ロイは心地よい眠りについていったのだった。
――
それから、5年の時が経った。
ロイは一人、エマの部屋で彼女の遺品整理をしていた。
エマは…宣言通り、30歳という若年でこの世を去った。
しかし町医者の先生は、本来ならば普通の人よりも免疫が低いエマが、
ゴルド病含め心臓病以外の大病をわずらわずに寿命をまっとうできたことはとても幸運だと言った。
その言葉を聞いて、ロイは少しだけ報われたような気がした。
彼女とはついぞ結婚式を挙げることはなかった。
ロイは研究が軌道に乗り、学者としての地位も高くなっていたが、
エマが拒んだのだ。
『もしもの時のために、お金はとっておいて』
そういいながら。
そしてロイが、自虐的な笑いを浮かべながら、ある引き出しを開けた時だった。
ロイの心臓が激しく脈打った。
――もしも、この謎に気づかなければ、ロイはエマと再会することはなかっただろう。
その引き出しには、小道具などとともに、二つ目のゴルド病の治療薬が入っている…はずだった。
しかし、そこにゴルド病の治療薬はなかったのである。
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