*** 6 *** ※

5/6
51人が本棚に入れています
本棚に追加
/37ページ
     俺の杞憂に比例するように、睦の仕事は日に日にきつくなった。  ホテルへの帰りがチェックインできる十二時間際になることも珍しくない。  外食もできなくて、そそくさとコンビニ弁当をかき込み、シャワーを浴びて寝てしまう。  もしかしたら俺みたいに後ろ暗い事情を察せられて、わざときつい仕事を割りふられているのではないだろうか。そう勘ぐりを入れたくなるほど過酷だった。  一方の俺はといえば、チェックアウトの後のほとんどを図書館で過ごし、コインランドリーで洗濯をすませて指定のホテルにチェックインするという毎日だった。パソコンを借りて早めに次の宿泊予約を入れる、そんなくらいしかすることがなかった。  睦が新しい仕事で働き始めてから一週間がたった。  週末の休日はないらしい。休みがいつ取れるのかも分からないという。  睦がいまにも倒れそうな様子でホテルに戻るたびに、俺は言い知れぬ不安と、自分は働いていない後ろめたさにさいなまれた。 「こんな仕事、もうやめろ。病気になるぞ、睦」  あまりに心配で、機会があるごとに俺は懇願した。 「ここしか二万稼げないから」  睦は仕事の大変さにも、俺の理解のない言葉にも、ぐっと堪えているような静かな声を出した。  でも顔は疲れている。笑顔が消えたし、疲労に囚われた表情は変化に乏しく、俺は死ぬ間際の父さんを思い出した。過労で鬱になったときの父さんもまた、いまの睦と似たような重い表情をしていたのだ。  二日後、睦はホテルに戻ってこなかった。  仕事で遅くなって、チェックインできる十二時に間にあわなかったのだろう。そう冷静に考えればすむことなのに、俺は寂しさと不安で軽いパニックになった。  もし、そうじゃなかったら。  病気で倒れたとか。何かの事件や事故に巻き込まれたとか。  考え始めると、悪い方向にばかり思考が及ぶ。  何しろ俺たちは互いに連絡をとりあうすべを持っていない。いったん離れてしまえば、海に浮かぶ二つの木片のようにどんどん離れてしまう。そうなれば二度と会えなくなる。  翌日はホテルを変える日だった。睦は次の滞在先を覚えているだろうか。それも不安だった。  けれど結局、その夜も睦は帰ってこなくて、俺の不安はピークに達した。  次の日は山下公園の氷川丸前で一日を過ごした。もしかしたらいつかのように睦が来るかもしれないと、一縷の望みを持って待っていた。しかし一日中仕事に追われているはずの睦はやってこなかった。  寒さと、寂しさと、悲しみで、身も心も震えた。睦が恋しくて、睦に逢いたくてたまらなかった。  今夜は横浜駅のTホテルだ。睦が戻らなくなって三日が経ち、時計は夜の十一時を回っている。  今夜も睦は来ないのだろうか。窓から通りを眺めて過ごす。  今夜はクリスマス・イブだ。繁華街はクリスマスの祝福ムード一色だった。  睦の戻らない理由をいろいろと考えてみる。ホテルの移動を忘れてしまっている可能性が高かった。  …あるいは。  だれか、他のやつといる、――とか。  不安で、やるせなくて、そんなことまで考えてしまう。  まさか睦に限ってそんなことはありえない。そう自分に言い聞かせるんだけど、一度興った疑念は、むくむくととめどなく湧いてくる。  チェックインとチェックアウトがあるから、俺たちはそれぞれの荷物をすべて持って出かけている。だからいつでも、どこにでも、誰とだってとんでいける。  ベッドにうずくまり、暗闇の垂れる室内を凝視した。 (これが現実だ)  どんなに美しい夢を語ったって、どんなに深い愛を誓ったって、これが現実。  帰ってこない睦。働くこともできず、一人侘しく待ち続ける、俺。  不意にコンコンとドアが鳴る。驚いて飛びあがった。ドアに駆け寄って開けると、睦だ。茫然と見つめてしまう。ようやくのように声が出た。 「睦――! こんなに帰ってこないで、何があったんだよ…!」 「残業が続いてさ――」  睦が大きく息を吐き、荷物をおろす。 「待って。まず、シャワーを浴びたい」  コートを脱ぐと、俺の顔もまともに見ようとせずにバスルームに入ろうとする。俺は体をわななかせてそれを止めた。 「ま――待て!」  溜まっていた我慢が捌け口を見つけたように噴き出した。 「連絡一つくれないで、三日も帰ってこないでさ…! もっとわけを話せよ! 建築現場の資材運びなんだろ? なんで、そんなに夜遅くまでかかるんだよ! いったい毎晩、何をやってんだよ! 俺がどんなに心配したか、分かってるのか?」  睦がドアノブに掛けた手をおろして、呆気にとられたように俺を見る。 「何をそんなに怒っているんだ? たった三日だろ。今日は帰ってこれたじゃないか」  たった三日。その三回の夜が、どんなに寂しく、長かったか。  睦は俺の気持ちなんか全然分かっていない。その哀しみと怒りで、胸が張り裂けそうだった。気が違ったみたいに俺は続けた。 「お前に俺の気持ちが分かってたまるか! この三日間、途方もなく長かったよ。そのあいだ俺は、ろくすっぽ人と話もできないで、ずっと一人っきりだったんだ! 孤独で気が狂いそうだったよ。お前はいいよな。仕事場に行けば仲間がいるんだろ。でも、ほんとにそれだけなのかよ? 誰かと、その後で逢ったりしてたんじゃないのか? それで、遅くなったりしてたんじゃないのかよ!」 「いい加減にしろ、拓」  睦の眉間に皺が寄った。怒りのこもった低い声に一瞬怯んだけれど、ぐっと拳に力を込める。 「じゃ、なんでだよ! どうして三日も帰ってこなかったんだよ!」  まるで駄々っ子だ。自分でもそう感じているのに止まらない。そんな俺を見つめる睦の顔に嫌悪感が滲む。 「頼む。疲れてるんだ。シャワーを浴びて寝かせて欲しい。説明は、後でするから」 「イヤだ! いま説明しろ! なんで三日も帰ってこなかったんだよ! どんなに俺が心配したか、お前、全然、分かってないんだろ!」 「いい加減にしてくれ! 分かっていないのはそっちだろ!」  睦の怒声にびくっとした。 「毎晩、遅くまで仕事があって、どうしてもチェックインに間にあわなかったんだ! 現場での仕事が終わっても、翌日の準備が夜中までかかる。倉庫で寝泊りして、シャワーも浴びれなくて、もう、へとへとなんだ。それでも仕事は手加減なんかしてくれない。分かるか? どれだけたいへんか。それをお前に理解してもらえなかったら、俺は、いったいどうしたらいいんだ!」  怒りを通り越して、苦痛すら滲ませる顔で瞳を伏せる。  睫が震えている。俺は悲しみに暮れながら、うなだれる睦を見つめた。  寂しくて、悲しくて。  心が縮こまってすすり泣いている。 「でも、俺だって」  涙が頬を伝った。 「睦が理解してくれなかったら、どうしたらいいんだ。昼も、夜も、一人きりで、何をするわけでもなくて。寂しくて――…。俺たちが生きていくために、お前がたいへんな仕事をしてくれているのは、もちろん分かっている。でも、俺は、ただお前といたいだけなんだ。睦と一緒にいたくて家を離れたのに、なのに、全然一緒にいられないじゃないか。いつまで続くかも分からない。こんな生活なら、終えたほうがましだろ。死んだほうが、よっぽどましだろ――――」  睦がきつく睨む。 「拓。お前、まだそんなこと――」 「なら、お前はどうなんだよ、睦。本当に、少しでもそう思ったことはないのか? お前は本当にこんな生活でいいと思ってるのかよ? 俺の言ってることは、そんなに間違っているか?」  睦が不機嫌に口を噤む。  睦に近づいて、その腕を強く掴んだ。絶望を運んでくるもう一人の自分が心の中に入り込み、真実を言えと衝動を突き動かす。 「睦、俺はもう、耐えられないよ。お前と全然、一緒にいられないなんて。一緒にいるために逃げてきたんじゃなかったのか」  睦の瞳に激しい動揺が浮かぶ。俺は懸命に首を振った。 「嫌だ。俺はお前と離れていたくないんだよ。そんなのもう一瞬だって我慢できない。睦…いい、俺なら。お前となら、いつ死んでもいい。いますぐだっていい。――もう何もかもに疲れたんだ。愛しあって、励ましあって、俺たち頑張ったろ? なのに未来は悪いほうにばかり進む。なら、もういいじゃないか、そんな人生にすがりつかなくても。そんな冷たい運命に祈って、お願いして、生きていかなくても。俺はもう一人じゃ立ってもいられないんだよ。お願いだ、睦…どうか、俺を連れて行ってよ。俺を、連れて行ってしまってよ…」  睦が愕然と俺を見つめる。 「俺のせいか? 俺が怒鳴ったりしたから…。だったら、もう怒鳴らない。もう絶対に、声を荒げたりなんかしない。だからそんなふうに考えるな、拓」 「違う」  睦の説くまっすぐで正しい優しさの前に、俺は力なくうなだれた。 「そんなんじゃない。俺は死にたかった。ずっとだ。お前と一緒にいられないなら、死んでいいと思ってた。家にいたころからだよ。そして横浜に来てからも…一緒にいるのは、なにもこの世じゃなくたっていいんじゃないかって、いっそ死んでしまったほうがなんの障害もなく愛しあえるんじゃないかって、そう思った。――駄目か? こんなことを考えるのは、よこしまか? …確かに、そう思ったときもあるよ。お前は音楽と俺さえ諦めれば、実家で幸せに生きていかれるんだもんな」 「やめろ。そんなわけないことは分かってんだろ」  睦が声に怒気を含ませる。 「じゃあ、お前は本当にこの生活に満足しているのか? 二年って――――長い。長すぎるよ。二年経ってどうするんだ。成人したからって簡単に本名に戻れるのか? 家族から……お前の過去から、逃げ切れるのか? そんなわけ、ないだろ…」  睦が黙り込む。長い沈黙が過ぎた。  もう俺の心は決まっていた。作った積み木の家を壊すときがきたのだ。カードの家が形を失うとき。 「家に戻るか、拓?」  不意に、意外な返答がくる。俺は睦を見つめたまま唖然とした。 「高倉が逮捕されたんだ。先週の新聞に載っていた。やつの名前は高倉正紀だろ? 数年前の殺人死体遺棄事件の主犯格として逮捕されて、本人も容疑を認めている。殺人容疑もかかっている。認めれば何年も刑務所から出てこない。だからもうお前が逃げ回る理由はないんだ。この生活に疲れきって死ぬのを考えるくらいなら、一緒に東京に戻ろう」  高倉が警察に捕まったのはなんら不思議ではなかった。殺人くらい犯していそうな男だったからだ。それより、睦が東京に戻ることを提案してきたことのほうがショックだった。 「戻ったら、俺たちは別れるんだよな。睦は真美のものになり、医者になることを強要される。それじゃなんの意味もない」 「意味はある。お前は死なずにすむ」 「いらないよ」  俺は強く否定した。 「そんな人生ならいらない。言ったろ? 俺は、お前がいなきゃ死んでるのと同じなんだ。真美のものになるお前をこの目で見届けろっていうのか? そんなの、耐えられないよ」  死神が背後からそっと人の魂を抜くように、俺はひっそりと睦を誘惑した。その顔からすべての感情が抜けるのを確認してから、睦の腰に腕を回してベッドへと誘った。睦が俺の体の上に体を預ける。汗と木材の匂いですっかり汚れてしまっている髪に指を滑らせ、何度も撫でた。 「死のう、睦。逃げてしまおうよ。もう、なんの心配もいらない場所に。いつかしたかくれんぼみたいに、ずっと隠れてしまおう」  彼を胸に抱く。睦は短い呻きを漏らした。 「お前だってもう、こんなに疲れなくていいんだ」  その言葉に小さく睦が頷く。それをほほえみながら確認して、俺は睦を腕に抱いたまま安心したように眠りに落ちた。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!