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体温計を買ってホテルに入り、測ってみると三十八度以上あった。ポカリだのヨーグルトだの、あたたかいコーンスープなんかを睦が買ってきてくれた。とりあえず俺はスープで暖をとった。
「病院に行けないの、つらいな。インフルエンザじゃないといいけど」
睦が表情を暗くする。
「違う」
見当はついている。四人相手じゃ、さすがの俺の体ももちこたえられなかったってことだ。雑菌でも入って、化膿したのだろう。
睦がベッド脇に椅子を持ってきて座る。俺の額に乗せた濡れタオルをかいがいしく替えてくれる。唇が渇くと水を飲ませてくれた。こんなふうに世話をやいてもらうのは申し訳ないと思いつつ、その快さと睦の優しさについ甘えてしまう。
ホテルに入ってから熱がさらにあがったのが自分でも分かった。荒いだ息で睦に話しかけた。眠る前に、どうしても謝りたかったのだ。
「昨日はごめん、睦。俺、お前をすごく傷つけた」
一瞬だけ顔を強張らせたが、睦はすぐに穏やかな表情に戻った。
「俺も悪かった。拓のせいで起こったことじゃないのにな。感情的になりすぎた。今朝も黙って出ていってごめんな」
「睦こそ、何も悪くないよ」
困ったように表情を崩す。
「じゃあ、あいこってことでいいか?」
手と手を取りあって、ぎゅっと握りあう。
「どうして俺が山下公園にいるって分かったんだ?」
さっきからずっと気になっていたことを訊ねた。睦があっさりと種明かしをする。
「決めておいたろ。お互いに連絡がつかないときは、山下公園の氷川丸前で待ちあわせようって」
ああ。そうか。そう決めたのは仕事を始めた日だ。自分から言い出したことなのにすっかり忘れていた。まったく間抜けったらありゃしない。
「忘れていたのか?」
「うん。俺は自然と足が向かったんだよ。横浜に来た日に二人で座ってたろ? だからなんとなく、睦と繋がるような気がしたのかも」
「ああ。かもな」
高熱のせいか頭痛がさし込んできた。
「明日までに熱をさげたいな。仕事に差し支える」
「いや。あの仕事場へはもう行かせない」
睦の強情な声に俺は吐息を漏らした。
「困らせるな。俺たちには金が必要だろ」
「そんなに切羽詰っちゃいない。手元に何十万あると思ってんだよ」
「でも、何が起こるか分からない。もしものために、少しでも多く貯めておかなきゃ」
現に毎日、ホテル代だけで一万円以上がとんでいくのだ。
俺をなだめすかすように、汗でべたついた前髪を睦がそっとはらう。
「俺たちはサメじゃないんだ。ちょっとくらい止まったって死にはしないよ」
「でも」
心配なのだ。恐ろしいものに追われているようで。不安で不安で仕方がない。唯一、俺たちの助けになる確かなものは金なのだ。
「お前は俺の嫁になれ、拓」
「は?」
いきなり、なんだ。
「俺の嫁さんになれ」
「――何、それ」
あまりに異様な言葉にヒいた。どう反応したらいいか分からない。
変なの。嫁さんって妻のことだろ。
睦が俺の手をとって口元に持っていく。何かの儀式みたいに厳かにキスをする。
「もし、俺たちが結婚したらさ、俺は拓を家の中にずっと閉じ込めて、押し込めて、誰にも見せないし、触らせない。だからいまもそうしろ。金は俺がなんとかする。お前は俺の帰りを待ってろよ。な?」
な?って言われても。同意するわけにはいかない、そんなの。
睦ったら気でも狂ったのか。何、勝手にロマンチックに浸っちゃってんだろう。
「夢みたいなことを言うなよ。俺が働かなかったら二人でメシ食う金がねえだろ。かすみでも食っていくつもりなのかよ」
俺の返事にちょっと怯んだ顔をしてから、睦がニヤっと笑う。
「口の悪さが戻ってきたね、拓くん」
「ふざけている場合じゃないだろ」
「給与を受け取るときに、吉田さんにお前が会社でやられたことを話してきた。弟は辞めさせますって、断言してきたから」
「睦! お前、なんて勝手なことを――!」
せっかく決まった仕事なのに、なんてことをしやがるんだと腹が立った。
「さっき、建築現場での資材運びの面接を受けてきた。実入りのいいやつだ。一日に二万稼げる。オーケーもらったから、早速、明日から働く」
「面接? 日曜なのに?」
「建築に土日は関係ない」
俺は首を振った。そんなの納得できない。一日二万だなんて話がうますぎる。きっと人権もないくらいに働かされるだろう。
「しんどそうな仕事じゃないか」
「いいんだ。拓が俺だけのものになるなら、どんなにたいへんでもいい。だからもう絶対に、誰にも、体を触れさせるな。俺以外の、誰にも抱かれるな。俺の願いはそれだけだ。俺が拓に求めるのはそれだけなんだよ。今度、また昨夜みたいなことをされたら――――そのときは俺、本当に拓を許せなくなる。だから、頼む――…」
俺の輪姦で相当なショックを受けてしまったのか。でなければこんな無茶なことを睦が言い出すはずがなかった。
(睦だけを働かせるなんて)
俺たちはもちろん結婚しているわけでも家庭を持っているわけでもない。働かなくなったからって俺は専業主婦みたいな生活を送れるわけじゃない。きっと睦のヒモみたいな存在になって、多大な負担となってしまうだろう。
頭痛がひどくなった。睦がふかふかのタオルで額の汗を拭ってくれる。こんなに優しくしてもらって、自分が睦にとって荷物でしかないように思えて、また自分の中に弱気な自分が入り込む。
「睦…」
「うん?」
「お前さ、死後の世界とかって信じる?」
「何? 急に」
睦がきょとんとする。
「俺、ときどき考えるんだ。死んだら俺たちは、どうなるんだろうなって」
「――そうか」
睦はこんな話に動揺しているようだったけれど、俺はかまわず続けた。
「俺たちはいつか死ぬだろ? そのとき、俺とお前はどうなってしまうのかな。もう、どこにも存在しなくなる? それとも、ばらばらに生まれ変わる? ――それとも、」
まるで俺の希望を読み取ったみたいに睦が続ける。
「また一緒にいられるよ」
「どうして? なんでそんなことが分かるんだ?」
「だって俺たち、こんなに愛しあってるんだから。運命が引き離すわけないだろ」
「運命…?」
俺は恨みがましく繰り返した。脈拍と共にガンガンと頭が痛む。
「運命なんて、そんなに親切じゃないよ、睦。だって、こんなに俺たちは苦労しているじゃないか。一生懸命働こうとした矢先に、俺はあんな目に遭った。ただお前と一緒にいたかっただけなのに、どうしてだよ。運命なんて優しくない」
悲しみに押しつぶされて息苦しくなる。睦は沈黙していた。
「お前だってそうだろ。俺がこんなに情けない奴だから、たいへんな仕事をしなくちゃならない。俺がふがいないから安心できないんだ。だから、俺を閉じ込めておきたいだなんて言うんだろ?」
「違う――拓。そんなふうに考えるな」
睦は必死に平常心を保とうとしているようにも見える。でも、いったん走り始めた俺のマイナス思考は止まらない。
「俺は思うんだ。もし、死んで何もなくなっちゃうなら、なんて人間って不幸なんだろうって。そんな人生、無理して生きる価値があるんだろうか…って。でも、もし死後の世界があって、死んでも自分が存在できるなら、それならば俺は、永遠に睦と一緒にいたいよ」
揺れる視線が絡まりあう。困惑した様子で睦が答える。
「それはもちろん、俺だって同じだ」
「ならさ。それが、『いま』であってはならない理由が、あるのかな」
そう言葉を切った途端、睦が愕然とする。
「何を言っているんだ…拓――――。そんなことを言うのはよせ。そんなこと考えるのは早いだろ。まだまだ俺たちは戦える。あと二年とちょっとだ。二年経てば、成人さえすれば、状況が変わる。きっと楽になれる」
まじないのようだと思った。おそらく自分自身に言い聞かせているのだ。
成人さえすれば、きっと楽になると。きっとなんとかなると。
けれど、その「きっと」という仮定を頼りにするには、俺の心は弱過ぎた。すでに逃げ出したくなっている自分がいる。
慰めるみたいに、睦は熱を持った俺の唇に唇を重ねてくる。俺は絶望的な気分で目を閉じた。
明日までにこの熱がさがるといい。でないと高熱のままチェックアウトをしなきゃならなくなる。チェックインの四時までどこでどう過ごそう。考えるだけで疲れた。
(続きはしない)
誰かが笑う。
(こんな生活、続くわけがない)
それは、もう一人の俺。
冷めた目で未来を見据える俺の影。的確に未来を見抜き、望みのすべてを断とうとする。
(こんな生活、どちらかが根をあげる。でも、いまさら家に帰れるか?)
冷酷な声を響かせてほくそ笑む。では、残る道はなんなんだ――――?
「大丈夫、きっとなんとかなるよ」
耳元で睦が呟く。いつものような意志の強さを滲ませて。
睦は新しい仕事のために朝早く出掛けた。
一人になった俺はチェックアウトの十時からチェックインの四時まで外で過ごさなければならなかった。熱はまだ三十七度以上あって、体はだるかった。
図書館で雑誌をめくっていても、熱にうかれるみたいに感覚がおぼつかない。
(俺たちはこのまま、どこへ流れていくのか)
辿り着く先はどこなのか。一人でいれば嫌な方向にばかり考えが及ぶ。自分だけが無為に過ごしている、そんな時間がゆっくりと過ぎていくのをひたすら待つしかなかった。
睦は夜の十時ごろにホテルの部屋にあがってきた。顔には濃い疲労の影が浮かんでいる。
「夕食は?」
「ラーメン食ってきた。旨かったよ。今度、一緒に行ってみよう」
「ああ」
「拓は食べた?」
「うん。コンビニ弁当だけど」
「熱は?」
「三十六度台までさがった」
「そうか。よかった」
自分こそ疲れているのに、俺ばかりに気を遣ってくれる。そんな睦はシャワーから出てきてすぐベッドに倒れこんだ。睦にだけ働かせるのはやっぱり後ろめたい。
「新しい仕事、しんどかったろ」
「初日だからさ。慣れるうちに楽になるよ」
気楽な調子で答える。俺に心配かけまいとしてくれているのだ。
俺は睦の横たわるベッドによじのぼった。
「…したい?」
寝転がったまま睦が訊く。
「今夜は疲れてるだろ。無理はさせないよ。腹這いになって」
睦の腕をとった。その顔に狼狽の色が掃く。
「腹這い? いや、俺、拓にやられるなら他のときのほうが。いまはまだ、心の準備が、」
怯えた顔で答える。どこまでふざけてるんだかしれない。
「ばかっ。くだらないことぬかすな」
せっかくさがった熱がまたぶり返しそうになる。
「言うに事欠いて、何を言い出すんだ」
ぷんぷんしながら睦の体をひっくり返した。肩から腕にかけてをマッサージする。思ったとおり、どこもカチコチに強張っている。これじゃ体がもたないだろう。
「ああ、上手いな。気持ちいい」
俺にはこれくらいしかしてやれることがないから。
首筋の付け根から肩甲骨へとほぐすときに、睦の髪が手に触れた。さらさらして気持ちいい。脱色しているわけじゃないのに茶色がかっていて、癖っ毛のためにかすかに波打っている。俺はこの髪が大好きだ。まくらに沈めた横顔に斜めに掛かっているあたり、とてもセクシーに見える。
「どうしてできるんだ」
「何が?」
「マッサージ」
「ああ。そりゃ、いちおう運動部だったから」
「マッサージを部員同士でやりあったりしたわけ?」
「うん、そう」
「くっそ妬ける」
肩をグイグイ揉んでいるから体が揺れて、声も揺れた。
「妬けるって、どこが」
妬く要素が分からなくて苦笑した。
「庄田ともしたんだろ?」
「後輩とはしなかったよ」
「そうなのか。ならいい。許す」
ほっとしたように言う。
「許すって何様だ」
二人で笑った。静かで穏やかな時間が過ぎてゆく。
「拓、生活が落ちついたら、またダンスしろよ」
「もうダンスには興味ないよ」
ダンスなんて。それこそ俺にとって遠い過去のものだ。
「でも俺は、拓がダンスするところをまた見たい。本当に綺麗だった。こんなに綺麗なもの見たことがない、ってくらいにさ。ダンスをしている拓はなんかこう、美しい蝶ちょが羽根をひらひらさせているみたいに映るんだ。本当に、見とれるよ」
本当にうっとりと話すから、照れくさくなる。昨日、俺が睦の音楽のことを考えたように、睦も俺のダンスのことを考えてくれているのだ。
「お前は俺を家に閉じ込めておくんじゃなかったのか?」
わざと意地悪く訊き返した。それで睦がきまり悪そうな顔をする。
「あれは、単なる喩えだろ。ほんとに監禁状態にはできないしな。確かに、拓を誰の目にも触れさせたくないっていうのは本心だけど――。…でも、実際にそうはできないよな?」
真面目くさく答える。睦がそう言うなら、そういうことにしておこう。
「終わったよ」
「サンキュ。すごく軽くなった」
起きあがって、状態を確めるように腕や首を回す。少しでも楽になってくれれば何よりだ。
「睦こそ、またギターを弾けばいいのに。俺、お前の歌とギター、好きだよ」
才能があるのにもったいないと思った。
「そうだな。そのうちな」
腕を引っ張られて、ベッドの上に押し倒される。俺の上に体を重ね、甘えるように胸に頭を乗せて目を閉じた睦は、三分と経たないうちに寝息を立て始めた。疲れのせいでその表情は暗く沈んでいた。
この体に抱かれ、守られて生きている、俺。
つまり、この体が失われれば、僅かも生きることができなくなる、俺。
そんな状態に満足しているのかと問われれば正直「はい」とは言えない。そして、こんなふうに考えること自体が睦に対して申し訳なく思う。
睦の体重を感じながら、宙を眺めた。チェックインしてから二時間ほど寝てしまったから眠くなかった。
睦といられて幸せなはずなのに、どうしようもならない現実への無力感に襲われる。
俺の中で張り詰めていたものが、おとといの睦との言いあいで、プツリと切れてしまったのか――――いや――――そうじゃない。むしろ、あの輪姦のときに俺の魂は、この世を見限ったといっていいのかもしれない。
睦と一緒に生きていきたいという思いと、この世の不条理に絶望する思いと。
その二者を天秤にかけたときに、俺の中で後者がずしりと重さを増したのではないか。
夜のしじまにぼんやりと考えながら、暗い思考は深い諦念の淵へと堕ちていった。
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