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「朝日くん。この死体、埋めようか。僕と君、二人で」
家に来た借金取りをうっかり殺してしまって参っていたら、小城儀先生が現れてそう言った。
なぜかわからないがおれはその提案を「完璧だ」と思った。
完璧なタイミング、完璧な語調、完璧な笑顔。完璧な地獄に誘ってくる完璧な案内人のように見えた。
しかしそれでも一応、なんで、と尋ねた。先生はこのアパートの裏に住んでいる、よく分からない大人だ。大人というのはおれの両親を筆頭にだいたい訳が分からないものだが、この先生は特にわからない。ふだん何をしているとか、どういうものが好きとか、どういうことで怒るとか。そういうことじゃなくて、そもそも体が何で出来ているのかすら分からないような感じの人だった。背が高くて眼鏡をかけていて、顔が爬虫類に似ていて、優しくも怖くも見えて、二十代にも四十代にも見える。近所の人間は先生と呼んでいるが、何の先生なのかは誰も知らない。たまにおれに話しかけてきて、生きるだの死ぬだの、あるだのないだの、よくわからない問答をふっかけていく。それが哲学と呼ばれるものだということを最近知った。哲学。何の役に立つのかは分からないけど、そういうものが好きな人間もいるんだろう。小学校や中学校にちゃんと行ってれば、誰かが教えてくれたりすることもあったんだろうか。
「なんで埋めるんだよ、死体」
おれは呆けたまま、そう繰り返した。
埋める。死体。おれが殺した死体。なんで? という、単純な疑問だけがあった。疑問というものを覚えたこと自体、ずいぶん久しぶりのような気がした。だいたいの出来事を「そういうものだ」と片付ける癖がついているので、「なんでそうなるのか」はあまり考えたことがない。
「なんで? そうだなぁ」
先生は楽しそうにおれの問いを繰り返す。
「死体を埋めるのにちょうどいい小春日和だから。というのはどうかね」
今は春じゃなくて秋だ……とおれは思ったが、口にしようとしてもうまくいかなかった。死体の前で放心していた時間が思いのほか長かったのか、唇の端が乾ききっていて開かない。
小春日和というのが実際には春でなく、穏やかな陽気の秋の日をさすというのは、山道を走りながら先生に聞いた。今この車のトランクには、スーツケースに詰められた死体がある。先生が手際よく手足を折りたたんで、ブルーシートに包んだ。
死体埋めというのは夜中に行うものだと思っていたが、先生は「今からやろう」とすっきりした顔で笑って言った。きれいな空気とすこんと抜けるような広々した秋の空。やっぱりなぜかは分からないが、それは完璧だという気がした。
車が整備のされていないわき道に入る。あるはずのない道に入られて焦ったらしいカーナビが、ルートを検索します、ルートを検索します、と申し訳なさそうに繰り返している。カーナビの衛星も知らないような道を知っていて、すいすいとためらわず入っていく。もしかしたら先生は、死体を埋めるのは初めてではないのかもしれないと思った。
ざくざくざく ざくざくざく
先生は穴を掘っていた。死体を埋めるためのやつだ。いわく、死体が獣に食い荒らされず警察犬の鼻をごまかし、地中で埋まり続けてくれるのに必要な深さは4メートルなのだという。水に沈める場合の重りは、体重とほぼ同じかそれ以上を。やっぱり初めてではないのかもしれない。家の近所に、死体をどっかにやるような職についている人間がいる。そういう偶然が起こるのは、人生においてどれだけの確率なんだろうか。おれが住んでる町では、そこまで珍しくもないけど。
ざくざくざく ざくざくざく
先生は穴を掘り続けている。華奢な優男に見えるのに息を切らした様子もなく、スコップをぐっと押し込む肩はそれなりにたくましかった。
「死んでしまえば、静かなものだね」
脚立で地上に上がってきてふうと一息つき、広げられた死体を見下ろして先生は言う。死体の腹には、まだ包丁が突き立っていた。血が吹き出るから抜かないほうがいいと先生に言われ、おれはその通りにした。
「いつもね、うるさくて仕方なかったんだよ。毎日毎日子供相手に大声出しては借金を取り立てて。趣味の読書に集中できない」
淡々としたその声には、怒りと見下しがたっぷり含まれていた。たしかに、完全に違法な取り立てを繰り返していた男であることは事実だ。「お前この家でたまに客とってんだろう。知ってんだぞ。中学を卒業したらもっと稼げる店を紹介してやろうか」と下卑た顔で言われ、そのねばついた声を聴いた瞬間もうダメだと思って、包丁で刺した。呆然としているところに先生が来た。そういう成り行きだ。客を取ってるというのは半分は事実で半分は嘘だった。正確には、親父に取らされている。
先生は額に浮いた汗を、シャツの袖で拭った。小春日和だからそれなりにあたたかく、運動すると汗が出る。
「おれも掘る」
その様子を見たらそうするのが正しい気がして、つぶやいていた。口に出した瞬間に、今日2度目の「もうダメだ」という気分になる。死体を埋めるのを自分から申し出るというのはそういう事だ。だけど一回目の「もうダメだ」よりは、変な言い方だか前向きな心持ちだった。先生という共犯者がいるからだろうか。おかしいなと思う。
「おや、そうかい。助かるよ。死体埋めというのは長丁場なんだ。本でも読んで休憩しようかね」
そう言って尻ポケットから薄っぺらな文庫本を取り出し、ブルーシートの端に腰を下ろして読み始めた。
おれはぴょんと、掘りかけの穴の底に降りる。地獄まで続いていそうな深さに見えた穴だが、実際にはまだおれの身長よりも少し高い程度だった。木の根も岩もなく、深い穴を掘るのによく適した土のように思える。先生はこういう土のありかをよく知っているんだろうと思った。ほぼ確信する。こういうの、よくやってんだろうなと。
「先生。なんでだ」
「なんだい」
「なんで死体埋めてくれんのかなと思って」
「今穴を掘っているのは君だろう」
死体用の穴と地上の間で、そんなふうに会話をした。そうだ。おれはまぎれもなくおれの意志で、死体を埋めるための穴を掘っている。スコップで掘り進み、土がたまったらビニール袋につめて地上にやる。ただそれだけの繰り返しだ。単調な作業をこなしていくのは気持ちがよくすらあり、やっぱりおかしいよなと思う。
しばらくたって、また聞いた。
「先生。なんでだ」
「また『なんでだ』かい。君の口癖なのかな。今度は何だね」
「おれ、金とか持ってねぇけど」
先生が死体埋めの経験者であろうことは分かった。そうだとしたら何かの対価がいるのではないかと思った。
「別にロハで構わないよ。普段は一人でやっている作業だ。今日は二人だから効率がいいくらいかな。知っているかい朝日くん。穴というのは、掘るよりも埋める方が何かとしんどい。何故だろうね。やりがいというやつの違いかな……まあとりあえず、今日は埋める方の作業も二人で分担しようじゃないか」
「そういうことを言ってんじゃねえよ」
「気にすることはない。死体を埋める人間なんて、実際にはそう珍しくもないよ。君が思っている以上に、あちこちにいるものだ。大体の者は仕事でやるのだろうが、まあ僕の場合は単に趣味かな。大げさな言い方をすれば、浪漫を求めているとも言える」
「ふざけたこと言うなよ」
「ふざけてなどいないよ。参ったね。人を殺した中学生に怒られてしまった」
ははは、と秋空に吸い込まれそうなさわやかな声で先生は笑った。おれは穴の底にいるから、先生の顔は見えない。だけど心底楽しそうな顔をしているのではないかという気がした。
穴の底と地上の距離は数メートルほどだが、おれは確かに、文字通り先生の尻の下に敷かれている。何か決定的な貸しをこの男に作ったのかもしれない。
ひとつ舌打ちをして作業を再会する。
「ああ、いい天気だ。朝日くん。このまま二人でどこかに逃げようか」
芝居ががった、だけどどこか棒読みみたいな口調で先生が言う。死体を埋め終わったらな、とおれは返す。先生がまた笑う。
地面の底からふと上を見上げると、穴の形に切り取られた丸い空がある。くっきりと青くて、泣きたいほど澄んでいる。やっぱり完璧だと思った。人を殺した日の午後が、こんな完璧なことってあるんだろうか。
春みたいにあたたかい秋の日のことを小春日和というのだと、ほんの数時間前に先生に習った。人を殺して埋める日は、春みたいだといいのかもしれない。
きっと先生は死体の隣で、完璧な横顔でうすく微笑んで本を読んでいる。
これはおれの完璧な直感だが、すっかりと死体を埋め終わったら本当に、先生はどこかに逃げる気なんだと思う。それはきっと、完璧な旅になる。だからおれは、休まずに穴を掘り続ける。さっきさんざん聞いた、カーナビの「ルートを検索します」という音声を思い出した。これから行くのもたぶん、検索しても出ない道だと思う。自分でもどうかしているとは思うけど、もうそれでいいやという気分だった。
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