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 あぁ、間違いねぇ!  今度こそ隣のドラ猫じゃけ。舐めやがって、もう逃がしゃせんぞ。ほっとけば俺の花壇でフンをする。  追い払おうと庭へ出て、生垣の隙間から路地の方を覗くと、こちらの様子を伺う猫は二匹おり、どちらも人の顔をしていた。  生意気な事にダークグレイの小奇麗なスーツを着込み、すかした黒い眼鏡を掛けていやがる。  あぁ!? 何か言ったか、このヤロウ?  俺が勤め人だった頃より高そうな服、着やがって! 手前ぇら、ネコだろ? ネコならネコらしく、四つ足で歩きやがれ!  怒鳴るネタは尽きず、一泡吹かせてやらないと気持ちだって収まらない。  何か一発喰らわせてやるものは……生憎、スコップは手元に無く、代りに携帯電話を投げようとするが、辛うじて途中で止めた。    いや、スマホはダメだ。こいつが壊れたら流石にマズイ。  だって、ホラ、アキコの『友達申請』……待ってンだからよ。アレに応えなきゃ、いけねぇもんなぁ。  でも、チラリと右手へ目をやると、オンボロ・スマホの液晶画面は真っ黒で、何も映し出していない。  ん~、電池が切れとんのか?  えぇと、電池を入れる場所は……何処だ? 単一? 単三? 何ンか、普通の電池と形が違う気もするぞ。  あぁ、そうそう……充電せんとな……電池はいらんのじゃ。そうすりゃ、ちゃんと動くんじゃけ~。  でも、えぇと……スマホの充電ってどうやるんじゃろ?  畜生、慌てるな。落ち着いて思い出さにゃならん。え~、俺が前にこいつを充電したのは何時?  随分と前の気がする。  だが、どれくらい前だかわからない。どうしても、どうしても……どうしても思い出せない。  あぁ、早う辻褄を合わさにゃ。  そもそも今は何時だ? 今日は平成何年の、何月何日何曜日?  確か、11月の半ばだったと思うが……  考えれば考える程、混乱は増すばかり。怯えた眼差しで天を仰ぐと、高みから彼を見下ろす皇帝ダリアの花弁が目に入る。  その瞬間、あの優しく穏やかな妻の声が耳元で囁き、「気にし過ぎよ、あなた」とたしなめられた気がした。  性分なんじゃけ~、しゃんなかろ。  白地に薄くピンク色がのった、大きさの割に可憐な花へ自嘲気味に語り掛け、右手のスマホをふと見詰める。  あれっ? 俺、庭いじりの最中にスマホなんかで何やっとんじゃ?  まぁ、良ぇわい。何ンぞ忘れるンは毎度の事じゃけぇ。覚えてないなら、どうせ大した事じゃなかろうがん。  庭いじりを中断し、縁側のサッシから居間へと戻る。  そこにはテレビとテーブル、それに妻の仏壇があるだけだ。庭いじりの後は決まって仏壇へ手を合わす。  写真の中の妻は、皇帝ダリアの花に重なる面影と同じ、優しい笑顔で夫を迎えた。  なぁ、会いたいよ、亜希子。  もう一度、お前と会えたら……何ンもかんも、やり直せるンなら、俺ぁ、もう何にもいらねぇ。  基弘は右手のスマホを見て、不思議そうに首を傾げた。  いつも仏壇のおりんの側に置いているのに何故、俺ぁ、こいつを手に持ったままなんじゃろ?  古いスマホの画面は左右の端がひび割れていて、真っ黒いまま、どう弄っても起動してくれそうにない。  電池が切れとんのか?  えぇと、電池を入れる場所は……何処だ? 単一? 単三? 何ンか、普通の電池と形が違う気も……?  暗く澱んだ胸の内を掻きまわす様な、かゆい所へどうにも手が届かない様な、じりじり疼く感覚が基弘を包み込む。    ねぇ、気にし過ぎよ、あなた。    飾られた写真立ての穏やかな笑顔が、いつも通り優しく語り掛けてきた。  何とも地味な顔つきの女。でも、基弘は妻の特徴の乏しい笑顔がとても好きだった。  しみじみ眺める内、意識の靄が少しだけ晴れ、退職した年の、ある冬の日の思い出が心に浮かぶ。  故郷での見合いで結ばれた前夫をがんで失い、独り身になってしまった亜希子が、SNSを介して真昼間、いきなり基弘へ連絡してきた時の驚き。  初めから身元を明かせば良かろうに、照れて『友達申請』なんて出して来るから、詐欺かと思ったんだよな、最初の内。  でも勇気を出して液晶画面の『友達承認』スイッチを押し、あれで全てが始まった。  つきあっていた頃の想い、三十代の気持ちを取り戻すまで、およそ一年。  遂に所帯を持ち、一人が気楽だと粋がっていた時分は思いもつかない満ち足りた三年間を過ごして……  亜希子に末期の癌が見つかった後の五年も、苦しかった反面、振り返れば掛け替えのない大事な記憶だ。  あいつがいない今はもう、俺の人生、何もかも終わってしまったけれど……  あれっ? そう言えば、今って何時? 今日は平成何年の、何月何日何曜日? 確か、11月の半ばだったと思うが……?    一人暮らしだと時間の感覚は自ずと鈍くなる。  誰にも話しかけない時間の蓄積が、いつの間にか人を時の狭間へ追いやり、置き去りにしていく。  もう何年も充電されていない真っ暗なスマホの液晶画面を見つめ、基弘は頭を強く左右に振った。
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