La dolce vita ~ 左手の誘惑

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 その晩、松岡が珍しく成瀬の部屋へやってきた。  いつもなら、成瀬が1階へ降りてきて居間で読書をしたりTVを観たりスマホをいじったりして寛ぎ、仕事が一段落した松岡と暫し過ごしたあと自室へ戻っていくのだが、今日は平日にも関わらず土曜日モード。すなわち、松岡は朝まで2階で過ごすようである。  成瀬はその裏に隠された理由を察していた。松岡は仕事の失態に落ち込む自分を慰めるつもりなのだ。それを裏付けるように、部屋に入ってくるなり抱きしめて、背中といわず尻やその内側まで撫でまわしてきた。耳元で聞こえる息遣い、上昇していく体温に触れると、恋人の優しさを肌で感じて安堵するのだが、欲情の邪魔をする【出来事】があって……  体をまさぐる腕、キスする時に頬に添えられた掌が左手だった。「やっぱり、彼の利き腕はそっちなんだ」と悦に入ったが最後、恋人の一挙手一投足が気になりチェックし始めてしまった。  松岡がソファーに深々と身を沈め「コーヒーが飲みたい」と、おねだりする。ハンドドリップで淹れたそれを渡す時、どちらの手で受け取るのか観察したら――― 左手。『よしっ!』と、心の中でガッツポーズした成瀬が、次に「ニュース見てもいい?」そう言ってサイドテーブルのリモコンに手を伸ばすさまを注視すると――― これまた左手。その後、LINEのチェックをするためポケットからスマホを取り出すのもタップするのも左で行う姿を見て、松岡の本来の利き手を確認することができた成瀬は満足する一方、感慨に耽っていた。 ――― 俺、先生のことを知っているつもりだったけれど違ってた  実は、松岡と暮らし始めてから そう感じる場面が多くあった。  今から20数年前。【逢瀬】という言葉がぴったりの付き合い方をしていた頃は限られた時間で抱き合い、語らい、食事をしてといった具合でじっくり向き合うことができずにいた。しかも、期間は半年。なので、同居し始めると新しい発見の連続だった。たとえば【寝相】。泊りの明け方、寒さで目が覚めると布団を奪われていることが多々あり、布団を持参してもらったら、以後【ミノムシ】状態で寝息を立てる恋人の姿を見て『こういう寝方をするんだ』と感心した。  他にも、寝起きが悪くて1時間ぼんやりしているとか、目覚めのために白湯を時間をかけて啜るとか、トイレに朝刊持参で籠るとか、鼻うがいを欠かさずするとか。白衣をピシっと着込んで仕事に取り組む姿を見慣れているせいか、早朝のスイッチが入っていない松岡の姿を目の当たりにすると、そのギャップに『可愛い』とすら感じる様になった。
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