1.

1/3
前へ
/10ページ
次へ

1.

「お帰りなさい、豊彦(とよひこ)さん」  ドアを開けると、恋人の映美花(えみか)が笑顔で迎えてくれた。立ち上がる彼女の動きに合わせて、長いスカートがふんわり揺れる。桜色のマニキュアを塗った指をのばして、映美花は僕に抱きついた。 「ただいま。今日は何を?」 「いつもどおりよ。読書とクロスワード。それから映画を一本観たわ」 「平和だね」  彼女の髪からは、ベリー系の甘い香りがする。前髪に鼻をうずめてしあわせを吸い込むと、映美花は「くすぐったい」と言って首をすくめた。  へこんだクッションのとなり、毛足の長い絨毯(ラグ)に埋もれるように、分厚い本が伏せてある。僕は映美花のおでこにキスをしてから、細い体をそっと離した。 「話はどこまで進んだ?」 「主人公が産業スパイとして告発されて、内蒙古に飛ばされたところ」 「じゃあもう終盤だね」 「そうなの。残りページが減ってきちゃって、ちょっとさびしいわ」  本好きとして、その気持ちはよくわかる。僕は床の本を拾い上げた。開いていたページは、確かに彼女の言った場面だ。 「主人公の妹の名前、なんだっけ?」 「あつ子でしょ、忘れたの?」 「ああ、僕が読んだのは学生時代……もう十年以上前だからね」 「豊彦さんて、若いときから読書家だったのね。私なんて漫画しか読んでなかったわ」 「知ってる」  ふふ、と笑った僕を、映美花が口の端を上げたまま上目遣いでにらむ。そんな顔も愛らしくて、僕の胸は喜びにうち震えた。  僕の家で、僕の好きな本を、僕の帰りを待ちながら恋人が読んでいる。その光景を想像するだけで、苦痛でしかない仕事もなんとか乗り切れるから不思議だ。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加