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1.
「お帰りなさい、豊彦さん」
ドアを開けると、恋人の映美花が笑顔で迎えてくれた。立ち上がる彼女の動きに合わせて、長いスカートがふんわり揺れる。桜色のマニキュアを塗った指をのばして、映美花は僕に抱きついた。
「ただいま。今日は何を?」
「いつもどおりよ。読書とクロスワード。それから映画を一本観たわ」
「平和だね」
彼女の髪からは、ベリー系の甘い香りがする。前髪に鼻をうずめてしあわせを吸い込むと、映美花は「くすぐったい」と言って首をすくめた。
へこんだクッションのとなり、毛足の長い絨毯に埋もれるように、分厚い本が伏せてある。僕は映美花のおでこにキスをしてから、細い体をそっと離した。
「話はどこまで進んだ?」
「主人公が産業スパイとして告発されて、内蒙古に飛ばされたところ」
「じゃあもう終盤だね」
「そうなの。残りページが減ってきちゃって、ちょっとさびしいわ」
本好きとして、その気持ちはよくわかる。僕は床の本を拾い上げた。開いていたページは、確かに彼女の言った場面だ。
「主人公の妹の名前、なんだっけ?」
「あつ子でしょ、忘れたの?」
「ああ、僕が読んだのは学生時代……もう十年以上前だからね」
「豊彦さんて、若いときから読書家だったのね。私なんて漫画しか読んでなかったわ」
「知ってる」
ふふ、と笑った僕を、映美花が口の端を上げたまま上目遣いでにらむ。そんな顔も愛らしくて、僕の胸は喜びにうち震えた。
僕の家で、僕の好きな本を、僕の帰りを待ちながら恋人が読んでいる。その光景を想像するだけで、苦痛でしかない仕事もなんとか乗り切れるから不思議だ。
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