呼べぬ名

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呼べぬ名

 降り続く雨と闇夜(やみよ)が村とその周囲を覆い尽くしていた。  雨は一向に止まず、雷鳴が(とどろ)く。  雷が光るたび、氾濫によって壊滅した村の様子が一瞬浮き上がり、その無惨(むざん)な姿を見た村人たちから何度も悲鳴が上がった。  その頃、水中で(ほむら)――イヤ、狐姿の狐生和(こうわ)は、水中で必死にもがいていた。  化け術を思い出す切っ掛けとなった、力を増幅させる丸薬(がんやく)の効果が切れ、狐の体が徐々に人間の姿に戻り始めていたのだ。  鋭い爪の生えた手足は人の手に、狐の顔は人間の焔の顔に戻ってゆく。    畜生(ちくしょう)ッ、体が言うことを()かない、どうしても人間の姿に戻ろうとしちまうッ。もしかしたら、俺はこのまゝ死んでしまうのか。  マァ、死に(そこ)ないの自分には丁度良い最期、かもな――。  弱気になってしまった瞬間だった。水中に誰かゞ飛び込み、焔の体を抱き寄せた。濁った水中と気泡(きほう)で顔がよく見えない。    人間……イヤ、この隠し忘れた尻尾――  この、(まだら)の尻尾は、オマエなのか――。  狐多郎は彼を必死に水面へ向け引き上げようとしていた。  焔の流れる涙は、彼に気付かれること無く、水の中に溶け、消えた。  名を呼びたい気持ちを必死に抑える。  何故なら、焔自身が聞いているからだ。  心の中で思い浮かべてもいけない。  仲間の狐に対し、狐退治の呪詛(じゅそ)がどう作用するか分からなかったゝめ、長い間、名の扱いに多大な神経を遣い警戒していたのだ。  一時の情に流され彼の名を呼べば、それが取り返しのつかない事態にもなり得る。  自身に掛けられた呪いを、意図せず相手に振り撒き、命を脅かしかねない。  迅に乗る仲間たちは、水上で狐多郎たちを待つのみであった。  術で灯りを生成してもよかった。だが、山に集っている村民たちを不安にさせてしまうのを避けたかった。 『プハアッ、フゥーーッ』 『狐多郎ッ、イキナリ飛び込むやつがあるかッ』  ザバッと水面に浮上してきた狐多郎を、弥七が一喝(いっかつ)する。 『弥七さん、ごめんなさい。でもほら、無事ですから。人間さん大丈夫ですか。(いたち)につかまってください。皆の居る山の近くまでお連れしますね』  迅が水面を泳ぎながら、狐多郎と焔の元へ向かってきたので、背中に乗るよう促した。 『イヤ、待ってくれ、まだお絹が――。東側に向かうんだ。俺は平気だ』  焔は、村の東を指差した。民家はほとんど流され、瓦礫(がれき)や山からの流木で滅茶苦茶であった。 『この先に――お絹がいるのか』  狐杜那が言った。 『彼女は笹魚(ささうお)に乗り、周囲を探しているはずだ。村人が一人まだ見つからない。頼む、力を貸してくれッ』  狐多郎は何度も迅に乗るよう言ったが、彼は自力で山まで向かうと最後まで拒み続けたのだった。  弥七は胸騒ぎを覚える。  村の東の外れ、幼い頃に清吉と遊んだ記憶が蘇った。  そして最後に村を出た時に見た、彼の悲しげな顔。  頼む、無事で居てほしい。  そう願いながら、皆と共に東へ向かうのであった。
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