溺愛師匠

1/1
前へ
/13ページ
次へ

溺愛師匠

少し肌寒くなって来ました。 並木の落ち葉も風に舞い上がり、道端の隅にガサガサと音を立てております。 そんな中、私は先生の原稿を赤坂まで届け、ついでに頼まれたお遣いを済ませ、先生の所へ足早に戻っておりました。 冬になる手前の短い季節は空もずっと曇っている様な気がして、早く帰ろうという気になってしまいます。 「何処かで焼き芋なんぞ売ってないかな…」 先生は私の出掛けにそう呟いておられました。 これは暗に「焼き芋を買って来い」という事なのですが、幾らか探しましたが、何処にも売っておりませんでした。 探していない時は結構大八車を引いた焼き芋屋を見るような気がするのですが、探すと見つからない。 これは焼き芋に限らずの事ですが、本当に先生の所望されるモノは厄介なモノが多いのです。 夏には、 「濃い水羊羹が食ってみたいな」 と言われ、白井さんを二人で汗だくになりながら府内を走り回ったりもしました。 やっとの事で帰り着き、門を潜ると、シズカのクンクンと鳴く声が聞こえました。 私は縁側の方を覗き込むと背を向けた先生とその背中に鳴くシズカの姿が見えます。 私はその光景に微笑み、玄関を入り、 「ただいま帰りました」 と声を上げました。 直ぐに希世さんが厨から出て来られ、私の持つ風呂敷を持って頂き、 「おかえりなさい」 と言って下さいました。 いつもなら編集者の白井さんが来られている時間なのですが、玄関に靴も見当たらず、私は首を傾げながら先生の下へと帰宅した挨拶をしようと縁側へと参りました。 「おう、要君。お帰りなさい」 先生は背を向けたまま仰いました。 「戻りました。すみません、焼き芋屋が見つからなかったので…」 と言いながら先生の傍に寄ると、なんと先生の膝の上に、小さな女の子がちょこんと座っていました。 「先生…。その子は…」 私はお手玉を手に遊ぶ女の子を覗き込みます。 先生もその小さな手を取り、顔を綻ばせながら遊んでおられました。 「私の娘だ」 先生は顔も上げずにそう仰られました。 私は驚いて、少し身を引いた様でした。 「違いますよ。鰻屋の水谷さんのお嬢様です」 希世さんは先生と私の前にお茶を置いて、そう仰いました。 「水谷さん…。あの若いご夫婦ですね」 私はお茶を手に取り、一口飲むと、丁度良い頃合いの温度で、渇いた喉を潤すには最高のお茶でした。 「水谷さんの奥様が二人目をご懐妊されたという事で奥様がご実家に帰られるそうで、その奥様を旦那様が送って行かれたのです。その数日の間、このお嬢様を預かる予定だった方が急病になり、それならば先生がと…」 希世さんの説明に私が頷くと、希世さんは更に載せた「芋鶏卵」を出してくださいました。 焼き芋が見つからずに、赤坂の和菓子店で芋鶏卵を買ってきたのでした。 洋菓子店では「スゥィトポテト」なんて洒落た名前で売っている様ですが、私が買ってきた店には芋鶏卵と書いてありました。 「弓枝ちゃん。芋鶏卵食べるかな」 先生は芋鶏卵を手に取り、女の子に渡されました。 女の子は嬉しそうに手に取り、食べ始めました。 「美味しいか…。そうか」 先生は女の子の頭を撫でながら目尻を下げておられました。 私は希世さんに、 「そう言えば白井さんの姿が見えませんが…」 と訊ねました。 すると希世さんが口を開く前に先生が、 「白井君には色々と買い物に行ってもらっている。うちに預けたら痩せてしまったと言われては困るんでな」 そう言う間もその女の子、弓枝ちゃんから目を離す事も無く、じっと芋鶏卵を食べるのを見ておられました。 私はそんな先生を見て何故か幸せな気分になってしまいました。 以前、奥様がいらっしゃったと希世さんに聞いた事があります。 その時、お子さんがおられたのであればこんな感じだったのだろうと想像してしまいました。 玄関が荒々しく開く音がして、白井さんの声が聞こえました。 「誰か、誰か」 と繰り返し仰っておられましたので、私は立ち上がり玄関へと向かいました。 両手に袋を抱えた白井さんは、その袋を落すまいと必死に耐えておられる様でした。 私は白井さんの持っておられる袋を取ると、 「お疲れ様です」 と声を掛けました。 「いや…。本当に疲れたよ…」 と白井さんは靴を脱いで部屋へ入って行かれます。 入れ違いに希世さんがやって来られ、私が受け取った袋を抱えると厨へと戻って行かれました。 先生の所へ戻ると、希世さんは白井さんにもお茶を持って来られ、一緒に芋鶏卵を出されました。 白井さんは殆ど一揆にお茶を飲み干され、希世さんは慌ててお茶のお代わりを入れに行かれます。 「済まなかったね…」 先生は白井さんに声を掛けられました。 話によると白井さんは百貨店まで行っておられ、先生に頼まれたモノを色々と買って来られた様でした。 白井さんは二杯目のお茶を飲み、目の前にあった芋鶏卵を食べようと手を伸ばされました所、白井さんの芋鶏卵を弓枝ちゃんが手に取って半分ほど食べてしまっていた様でした。 それを見て、先生は、 「そうかそうか…。そんなに芋鶏卵が好きか…」 とまた弓枝ちゃんの頭を撫でておられました。 私は白井さんと目を合わせ苦笑してしまいました。 翌日も先生は朝から縁側で、弓枝ちゃんにドイツの童話なるモノを読み聞かせしておられました。 朝早くにやって来られた白井さんは、それを見て、 「先生、私が代わりますので、原稿の方を」 と仰いました。 すると先生は、 「いやいや、私が見ると言ったのだから私が責任をもって…」 と膝の上に弓枝ちゃんを乗せたまま動かれません。 読み聞かせの後は庭に出て毬を突いて遊んだり、シズカの散歩に出掛けたりと、日がな一日遊んでおられました。 先生と弓枝ちゃんが夕食を食べ終えた後、私と白井さんは二人で夕食を戴きました。 その食事の間に白井さんは百に近い溜息を吐いておられました。 「水谷さんはいつ帰って来られるのでしたかね…」 白井さんは鱈の鍋をつつきながら吐き出す様に仰られます。 希世さんはお茶を差し出し、 「沼津の方だと仰っておられましたので、明日か明後日には戻られると思うのですが…」 白井さんは箸を止めると、 「静岡か…。近くないな」 と呟く様に仰っておられました。 私はそんな白井さんを見て気の毒でなりませんでしたが、先生の楽しそうな表情を思い出すとしばらくはそっとしておいてあげたいとも思ってしまいます。 何とも複雑な気持ちでした。 その後も先生は弓枝ちゃんと寝ると仰られ、早くに部屋へと入って行かれました。 私はその時の苦虫を噛んだ様な白井さんの表情を一生忘れる事は無いと思います。 「要君…一杯付き合ってよ…」 と白井さんは帰りがけに私に仰いました。 私はその誘いを承諾し、二人で近くのカフェへと出掛けました。 日が陰ると一気に気温は落ちます。 外套を羽織って来るんだったと後悔しながらも、窓ガラスの曇ったカフェに二人で入りました。 冷たい空気の入り込む窓際の席に座ると、ビールと最近流行っているクロケットを注文しました。 クロケットとは潰したジャガイモに挽肉を混ぜ込み、衣をつけて油で揚げたモノですが、何とも美味でした。 「大丈夫ですよ。先生の事です。ちゃんと原稿は仕上げられますよ」 私は冷たいビールで喉を洗う様に飲みました。 すると白井さんは既に二杯目を注いでおられました。 「だと良いのですが…。先生にはいつもドキドキ、ハラハラさせられます」 私はそんな白井さんに微笑み、クロケットを口に放り込みました。 中のジャガイモが熱く、口の中を火傷しそうになり、冷たいビールを一気に飲みました。 「弓枝ちゃんの父上も、すぐ帰って来られるでしょう」 私は根拠の無い気休めを口にした様でした。 次の日でした。 小さな事件が起きました。 私がパン屋から帰って来ると、先生は白井さんを烈火の如く怒っておられました。 流石に私は先生と白井さんの間に入り、先生のお怒りを鎮めました。 「どうしたんですか…」 私はお二人を交互に見ながら訊きました。 そんな様子を見て幼い弓枝ちゃんも泣き出してしまいました。 先生はそんな弓枝ちゃんを抱きかかえて、あやしながら庭から外へと出て行かれました。 力なく座り込まれる白井さんを見て、私も縁側に腰かけました。 「一体何があったのですか」 私は白井さんに改めて伺いました。 白井さんによると、先生に原稿を書いてもらうために、先生に代わって弓枝ちゃんの面倒を白井さんが見ると仰った様です。 先生にはその「面倒」と言う言葉が気に入らなかったみたいでして、 「子供の世話をするのに、「面倒」とはどういう事だ」 と白井さんに仰られ、怒鳴りつけられた様でした。 日本語とは難しいのです。 白井さんは肩を落としたまま立ち上がられ、 「今日は帰ります…。先生によろしくお伝え下さい。明日また…いや、明後日…いや…」 と歯切れの悪い独り言をブツブツと言われながら白井さんは帰ってしまわれました。 私は少し心配になり、白井さんの背中を追いましたが、とても声を掛けれられる様子ではなく、そのままその背中を見送りました。   その日の夕刻、まだ暖かい西日が差す時間でしたが、私は縁側で落ちる夕日を見ておりました。 するとそこに弓枝ちゃんがやって来て、私の横に腰かけ、縁側に足をブラブラとさせ、私の顔をじっと見つめます。 「かなめくん」 弓枝ちゃんは私を呼びます。 私の名前などいつ覚えたのか不思議で、私は庭に下り、弓枝ちゃんの視線の高さに合わせて顔を覗き込みました。 「ちらいくんはどうちたの」 どうやら白井さんの事を心配している様でした。 「白井さんは御用があって帰りましたよ」 「ふぅん…。あのね、あのね…」 私は弓枝ちゃんの顔を真っ直ぐに見て、 「どうしたの」 と訊きます。 「ちらいくんがこれくれたの」 と弓枝ちゃんは着物の袂からお手玉を出し、私に見せてくれました。 「そっか…」 私は弓枝ちゃんに微笑んで、頷きます。 「みんな、みんなもってたのにね。弓枝だけもってなかったんだよ。だからうれちかったの」 嬉しそうにお手玉を掌でポンポンと遊びます。 「みさおちゃんもあきのちゃんももってて、弓枝もいっしょにあそぶんだ」 私は微笑み嬉しそうな弓枝ちゃんの頭を撫でました。 「要君、要君」 と部屋の奥から先生の声がしました。 「かなめくんはここだよ」 弓枝ちゃんは大声で先生に言います。 先生は縁側に居る私たちに気付き、 「弓枝ちゃん、教えてくれたのか。ありがとう」 と先生は嬉しそうに弓枝ちゃんに歩み寄り抱き上げました。 私は縁側に上がり、先生と弓枝ちゃんを微笑みながら見ておりました。 すると先生は弓枝ちゃんを下ろし、私に、 「白井君に渡す原稿を書いた。明日、白井君に渡してくれるか」 白井さんの今日の落ち込み様では明日は来られない可能性もあります。 私は明日、白井さんの会社へ届ける事にして、先生に「はい」と返事をしました。 「もう一つ頼まれている随筆があるので、それを書き上げる。それまで弓枝ちゃんを見ててくれるか」 先生は弓枝ちゃんの頭を撫でながら仰いました。 先生は、仕事はちゃんとやる人です。 私は無言で頷き、弓枝ちゃんの肩に手を添えました。 先生はそれを見てまた書斎へと戻られました。 希世さんは夕飯の支度が出来たと先生に声を掛けに行かれたのですが、先生は「原稿を書き上げたら食べる」と仰られたらしく、私は弓枝ちゃんを連れて食堂へ行き、並んで座りました。 「今日はクロケットを作ってみましたよ」 希世さんは白いお皿にクロケットを二つ載せて、食卓の上に並べられました。 希世さんには感心します。 流行のモノを直ぐに作って食卓出す。 私はクロケットを始めて食べたのは希世さんのクロケットでした。 それが美味しくて、また食べたいと思っていた所、カフェでも食べられる様に流行していったのです。 少し希世さんのクロケットとは味が違いましたが、私はどちらも好きです。 「ドイツ人は日本人が米を食べる様な感覚で、ジャガイモを食べるんだよ」 どうやらジャガイモを潰して食す文化の様です。 私は博学の先生にはいつも敬服します。 たまに難しそうな本を白井さんに頼み、一日中読んでおられる事があります。 そうやって外国の知識などを吸収されるのでしょう。 先生が居られない食卓で、私と弓枝ちゃんと希世さんは夕飯を戴きました。 弓枝ちゃんもクロケットを気に入った様子で、小さいのに器用に箸を使って食事をしていました。 ぽろぽろと溢すのですが、希世さんが 「後で綺麗にしておきますので、そのままにしておいて下さい」 と仰っておられましたので、私も揚げたてのクロケットを存分に楽しむ事が出来ました。 お腹が一杯になったのか、弓枝ちゃんは箸を握ったままコクリコクリと舟を漕ぎ始めましたので、私は弓枝ちゃんを抱きかかえ、居間のソファに寝かせました。 希世さんは毛布を持って来て弓枝ちゃんに掛けておられました。 食後の珈琲を食卓で戴いておりますと、先生が原稿を書き上げて、食堂へと来られました。 希世さんは先生の姿を見ると立ち上がり、先生の食事を食卓へ並べられました。 「おお、これはクリケットだったかな…」 先生は皿の上のクロケットを見て喜んでおられました。 「クリケットはシュポルツですね…。これはクロケットです」 とご飯をよそったお茶碗を出しながら希世さんがおっしゃいました。 「ああ、そうか…。いつもどっちがどっちだったか迷ってしまう」 先生はそう仰ると手を合わせて食事を始められました。 希世さんはお茶を淹れて先生の前に出されました。 先生はそのお茶を飲み、 「そう言えば、白井君はいつ帰った…」 と私に訊かれました。 私は、珈琲カップを置くと、 「朝の内に会社に戻られた様でした」 先生は私の言葉に頷き、 「そうか」 とだけ仰り、クロケットを口に入れられると、 「少し言い過ぎたな…。白井君には悪い事をした」 と少し悲しそうな表情でした。 その夜、弓枝ちゃんをベッドに運ぶと、先生は、ウヰスキーの瓶を持って、 「久々に一杯やらんか…」 と書斎に居た私に声を掛けられました。夏の夜の様に縁側で飲むには少し寒い季節になりましたので、先生は居間の火鉢に炭を入れて、その前に座られました。 私も先生の向かいに座り、グラスを二つ先生の前に置きました。 「これはアメリカの酒らしい…」 とラベルの剝がれ掛けた瓶をトンと床の上に置かれます。 「ケンタッキーという所で酒を造っているそうだ」 先生は琥珀色のウヰスキーをトクトクとグラスに注がれました。 「バアボンウヰスキーとか言うモノで、原料が唐黍だと言っていたな」 唐黍からも酒が出来る事を私は初めて知りました。 先生はウヰスキーを注いだグラスを一つ、私の前に押し出す様に置かれました。 そしてグラスを持つと、 「いつもの様に世界平和に乾杯しよう」 と仰り、私の手のグラスにご自分のグラスを軽く当てられました。 先生は酒をゴクリと飲まれ、顔を顰められました。 流石に先生にもウヰスキーはきつい様です。 私も真似をしようと思いましたが、流石に無理でした。 先生はそれを見ておられたのか、クスリと笑うと、立ち上がり食堂へ行き、チョコレイトの缶を持って来られました。 「ウヰスキーにはチョコレイトが合う。弓枝に食べさせようとしたのだが、どうやらチョコレイトにも酒が入っているらしくてな。これは私たちが責任をもって食べよう」 と缶の蓋を開けられました。 先生は小粒のチョコレイトを口に放り込むと酒をまた飲まれます。 私も一粒口に入れ、琥珀色の酒を口に含みました。 「確かに、合いますね…」 私がそう言うと、先生は云々と頷かれました。 「不思議なモンでな…。甘いモンと酒が合うなんて考えもつかん。それだけ日本人ってのは感覚が凝り固まっているのだろう」 先生は薄暗い電球を見ながらそう仰いました。 「鰻屋の水谷もそうだった」 私は顔を上げ先生を見ました。 「水谷は鰻屋の倅だが、帝大で文学を学んでいたんだ」 初耳でした。 私の驚いた表情に気付かれたのか先生はニヤリと笑い、空いたグラスにまた酒を注がれました。 「鰻屋の親父が若くして亡くなり、水谷は鰻屋を閉めると言っておった。文学の道に進みたいと考えていたからな。だけど、文学で飯が食えるかと言われるとそうでもない。そんな事をして飯が食える者なんて一握りしかおらん。水谷は私の所に来て鰻と文学のどちらを取るのが正解かと訊いてきた」 私はじっと先生を見つめ、話を聞いていました。 先生は微笑むとまたチョコレイトを一つ食べられます。 「私は水谷に、嫁を貰えと進言した」 先生は酒を口に含むと顔を顰められました。 「嫁を貰い、自分の未来を考えろと言ったんだよ。そうすれば自分の一番良い未来図を描けるとな」 私は無言で頷き、酒をまた一口飲みました。 先生は風で揺れるガラス戸を見たまま、 「当時付き合いのあった作家仲間に水谷の嫁に良い相手はおらんかと訊ねた所、沼津のお茶屋の娘がいると紹介されてな。それで二人を引き合わせ結婚したんだ」 「そんな事があったんですね」 私はグラスの酒を飲み干し、空のグラスを両手で持っていました。 先生はそれに気付いて、私の手からグラスを取り、ウヰスキーを注いで私の前に戻されました。 「弓枝が生まれたのが、要君がここに来る少し前だったかな…」 弓枝ちゃんが三歳だと言っておられたので、多分そうだと思います。 「水谷は私の所に来て、女の子が生まれたので、私に名前を付けて欲しいと言ってきた。私は迷わず弓枝という名前を付けた」 先生は座り直し、少し火鉢に近寄られました。 「弓になる枝の様にしなやかで丈夫に育つようにという意味を込めてな」 私はグラスに口を付けて、唇を湿らせるように酒を飲みました。 「けど、それだけじゃないんだ」 先生は私の顔を見て微笑んでおられます。 「私にも昔、娘が居てな…」 先生が以前結婚されていた事は希世さんに聞いて知っておりましたが、お嬢さんが居られた事は知りませんでした。 「まあ、幼い頃に死んでしまったのだけど…。その娘の名前が弓枝だったんだ」 私は目を丸くして話を聞いていた様です。 先生はクスリと笑い、私の腕を叩かれます。 「そんなに驚く事じゃない」 「はあ…」 私は何と言えば良いのかわからず、ただ頷くだけでした。 「娘が病で死んだ事が原因で妻と別れる事になったんだ…。ある日突然、娘も妻も私の前から居なくなった。私は、この先どう生きて行こうかと悩んだね…。あれ以上に悩んだ事は後にも先にも無い」 先生は天井を見て溜息を吐かれました。 「娘が生きててくれたらな…。もう少しだけ、もう少しだけ生きていてくれたら…、私も私の妻の人生も変わっていたかもしれんな…」 私は先生の背負っておられるモノが大きく見えました。 そんな経験があるからこそ、人の心を動かす様な小説が書けるのでは無いかと考えました。 同時に私とは違う事を感じ、困惑してしまいました。 「まあ、酒の上での戯言だ」 先生はそう仰り、私のグラスにまたグラスを当てられました。 翌日の昼に水谷さんは戻って来られました。 先生は弓枝ちゃんを抱きかかえて、 「先生の家の子になるか」 と弓枝ちゃんに訊いておられました。 弓枝ちゃんは即答で、 「あたち、うなぎやのこでいい」 と言い、父上の元に駆け寄りました。 私と希世さんはそれを見て微笑ましく見守りました。 先生の表情は少し残念そうでしたが…。 水谷さんは沼津の土産に沢山の干物を下さいました。 どれも美味しそうで、私の腹が鳴り、それを先生は聞いておられた様で、 「早速昼飯に戴こう」 と仰いました。 そしてその次の瞬間、先生の腹も鳴り、二人で顔を見合わせて笑いました。 「この干物の匂いに釣られて白井君もやって来るだろう」   先生はニコニコしながら書斎へと向かわれました。 それと同時に玄関の戸が開き、白井さんが入って来られました。 「ん…。どうされました…」 と白井さんは私と希世さんの顔を見て、何が起こったのか不思議そうに首を傾げておられました。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加