子別師匠

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子別師匠

少し暖かい日が続く様になりますと、春も目の前まで来ているのでしょうか。 私と白井さんは佳境に入った先生の邪魔をせぬように縁側で希世さんの淹れて下さった珈琲を飲んでおりました。 するといつもの郵便局員の穂積さんが訪ねて来られました。 「穂積さん」 私は玄関へ向かわれようとされておられる穂積さんに声を掛けました。 何よりも穂積さんが訪ねて来られた事を喜んでいるのは柴犬のシズカでした。 シズカは嬉しそうに穂積さんの足元で飛び跳ねております。 「やあ、シズカ」 穂積さんはしゃがみ込んでシズカの喉を摩っておられます。 「シズカは穂積さんが大好きですね」 白井さんは珈琲のカップを縁側に置くとそう言ってニコニコと笑っておられます。 穂積さんは革の鞄から手紙を幾つか出され、私に渡して下さいました。 「暖かくなってきて良かったですね」 私が穂積さんに言いますと、穂積さんはにっこりと微笑まれ空を見上げられました。 「そうですね。このまま春が来れば良いのですが」 その言葉に私と白井さんはうんうんと頷きました。 時間がある時は穂積さんもお茶を飲んで行かれる事もあるのですが、今日は急がれていた様で、そそくさと帰って行かれました。 私は縁側に置いた先生宛の手紙を見ました。 その中に気になる手紙が一通ございました。 「白井さん…。この手紙は…」 その封筒を白井さんに渡しました。 白井さんは差出人の名前を見て、顎に手を当てられました。 「とりあえず、先生の原稿が上がるまで置いておきましょうか」 白井さんは私にその封筒を渡されました。 その封書はロザーナ・ラインハルトという女性からのモノでした。 帝大で哲学を教えておられましたラファエル・フォン・ケーベル先生の教え子で、先生が来日される際に、一緒に日本に来られたドイツ人の女性でした。 ケーベル先生は漱石先生の知り合いで、先生も何度かお会いした事があるという仲でした。 ロザーナさんは寫眞を撮るのが趣味で、いつも寫眞を同封してこられるのですが、先生はその寫眞が届きますと、しばらく何も手に付かなくなるのです。 それには経緯がございまして…。 シズカが先生の家にやって来た時、シズカのお腹には子どもがおり、元気な三匹の子犬を生んだのです。 先生は我が子が生まれたが如く、漱石先生が主催されておられる会合でその事を話された様なのですが、その子犬たちを欲しいと申し出られた方が三人おられまして、ロザーナさんはその一人なのです。 先生は三匹の子犬もご自分で育てられる予定だったのですが、漱石先生の勧めもあり、里子に出す決心をなされました。 雌の子犬三匹。 それぞれに先生は「サン」「トワ」「マミ」と名付けておられ、サンがロザーナさんの所へ、トワは漱石先生の門下生でいらっしゃいます糸永伯山という方のお宅へ、マミは大衆演劇の役者、花咲菊之丞というお方の所へと引き取られて行きました。 先生は、 「糸永はトワを食ってしまうかもしれん。赤犬は美味いのだと言っておったからな」 と最後まで言っておられましたし、 「菊之丞は地方へ出向くとしばらく帰って来ん。それではマミが可哀そうだ」 とも。 ロザーナさんには、 「彼女はいつドイツに帰ると言うやもしれん。その時にサンが捨てられるのは可哀そうだ」 と言って里子に出すのを渋っておられました。 それを聞かれた漱石先生が、 「糸永は無粋に見えて大の犬好きだから心配は無い。菊之丞の家にはお手伝いの女中も居て、問題無い」 と、仰られ先生も納得されましたが、ロザーナさんに関しては何も仰らないままでございました。 しかし、サンを引き取りに来られたロザーナさんと話をして安心して里子に出されました。 それでも数日は縁側で黙ったまま、シズカと二人で落ち込んでおられたのです。 ようやくそれも吹っ切れて仕事を始められた先生でしたが、数か月程してロザーナさんからサンの寫眞が送られて来まして、楽しそうにしているサンをずっと眺めておられ、その間、一向に原稿が進まなかったのです。 ですから、ロザーナさんからのお手紙は先生にとってはとても嬉しいモノで、白井さんにとっては少し困ったモノなのです。 「明日の四時までに原稿を頂かないと、こっちも困った事になりますので」 白井さんはカップに残った珈琲を飲み干されました。 そんな真剣な表情の白井さんに苦笑し、私も珈琲を飲み干しました。 「白井君」 先生が原稿を片手に書斎から出て来られました。 白井さんは慌てて、私に郵便を隠せと手で合図されました。 「はい」 白井さんは上ずった声で返事をされました。 先生はそんな白井さんを少し怪しむ目で見られ、直ぐに本題に入られます。 「この言葉は使って良かったかな…」 先生はご自分の原稿を指差しながら白井さんに尋ねておられました。 白井さんはそれに答えながら書斎へと先生を連れて行かれました。 原稿の締め切りに命を懸けておられる白井さんには敬服です。 「先生、後二十枚ですよ。明日の四時ですからね」 白井さんは希世さんの作られた夕食を頂きながらも先生にそう言っておられました。 先生も半ば呆れた様子で、箸を振り回しながら「分かってる、分かってる」と繰り返しておられました。 私はそんな二人のいつもの光景を見ながらも、先生に届いたロザーナさんからのお手紙をどうしようかと考えておりました。 先生は成長したサンの寫眞を見たいでしょうし、白井さんは先生の手が止まるのは困るでしょうし…。 私は希世さんの作られた鰤の塩焼きが喉を通りませんでした。 「ところで要君」 先生は私の方を向き、箸を置かれます。 「は、はい」 私の声は昼間の白井さんの様に、上ずっていたかもしれません。 「君に訊きたい事があるんだが…」 先生は改まって私にそう仰られます。 「な、な、何でしょうか」 流石に先生も私の動揺を少し怪しまれたのかもしれません。 少し首を傾げ、 「どうしたんだい。少し様子がおかしいですね」 と目を細められ、口を真一文字にされました。 「い、いえ、私は別に…」 私はご飯を掻き込む様に頂きました。 そして無理矢理飲み込むと、箸を置きました。 そして改まって、 「はい。何でしょうか」 と先生に尋ねました。 先生は腑に落ちない表情でしたが、脇に置いた一冊の本を私の前に置かれました。 「ある人は十銭を以って一円の十分の一と解釈する。ある人は十銭を以って一銭の十倍と解釈する」 先生は静かにそう仰いました。 漱石先生の作品「虞美人草」の中にある一節でした。 私もそれを覚えておりました。 「同じ言葉が人によって高くも低くもなる…というモノですね」 私は先生に答えました。 先生はそれに二度程頷かれました。 「君の解釈はどうだ…」 先生は湯飲みのお茶を口に含まれました。 私は少し考えて、 「私にはまだ分かりません…」 先生は湯飲みを口元で止めると覗き込む様に私を見られました。 「何故だ」 私はゆっくりと息を吐きました。 「私の書く小説はまだ三文小説以下の作品です。一円どころか十銭、一銭にも満たないモノです。そんな私に十銭の価値を解釈しろと言われましても…」 私は少し俯いてそう答えました。 すると先生はクスクスと笑っておられました。 そして同じ様に白井さんもクスクスと。 希世さんが先生の茶碗を片付け、先生の前に珈琲のカップを置かれました。 「要君。君らしい解答と言えば君らしい」 先生はにっこりと微笑まれると灰皿を引き寄せて煙草を懐から出されました。 「白井君が君の小説を雑誌に載せたいと言って来ているのだが…」 私は驚いて顔を上げました。 「わ、私の…」 私は先生と白井さんの顔を交互に見ました。 二人とも同じ笑顔で私を見ておられます。 「白井君が君の書いた『或る男の足跡』をね、雑誌の連載に載せたいと言っている。私は二つ返事で了承したが、よくよく考えてみると、作者は要君だからね…」 先生は煙を吐きながらそう仰いました。 私は嬉しくて飛び上がりそうになるのを、はしたないと思い我慢しておりました。 白井さんと私の前にも珈琲を希世さんが置いて下さいました。 「あの話は面白かったよ」 白井さんは珈琲に砂糖を入れながら私を見ておられます。 「漱石先生の『吾輩は猫である』、先生の『横濱輪舞』に匹敵する作品だと僕は思うよ」 漱石先生の『吾輩は猫である』は猫が主人公であるお話で、漱石先生の最初の作品です。 先生の『横濱輪舞』は横濱で働くカフェの女中の話なのですが、私はどちらの作品も好きで何度も読み返した程でした。 そんな作品に匹敵するとは白井さんも大袈裟な方です。 「私も面白かったし、新しい感覚だと思ったよ」 先生は口を真一文字にしたまま仰いました。 『或る男の足跡』は原始人が山火事で起こった火を手に取り、自分のネグラに持って帰り、初めて肉を焼いて食べたという話でした。 「決して高い給金ではないが、それも準備するつもりだよ。どうかな…要君」 私はまだ、先生の弟子になり一円も稼いだ事はありません。 小説でお金をもらう。 こんなに嬉しい事はありません。 「まあ、まだ時間はある。ゆっくりと考えると良い」 先生は私の手が震えているのを見て、優しくそう仰って下さいました。 私は震える手で珈琲カップを手に取りました。 その日、私が覚えているのはそこまででした。 その夜、先生は私に感化されたと仰り、夜遅くまで白井さんに渡す原稿を書いておられました。 私は先に休ませて頂き、朝起きると先生も休んでおられました。 朝はまだ少し肌寒く、私は両の腕を摩りながら庭に出ました。 昨夜の話が嬉しくてなかなか寝付けませんでしたので、寝不足でしたが、朝の冷たい大気で目が覚めました。 ずっと小説を書いているだけなので、以前と比べるとかなり運動不足でしたので、朝は少し体を動かす事にしております。 「あら、要さん。お早いですね」 丁度、希世さんが訪ねて来られました。 「おはようございます」 私は希世さんに頭を下げました。 希世さんは手に大きなパンを持っておられました。 「三丁目に出来たパン屋さんで焼きたてのパンを買って来ましたよ。直ぐに朝食を作りますね」 希世さんはそう仰り、勝手の方へと回られました。 多分、先生は、今朝は起きられません。 私は先に朝食を頂く事になりそうです。 希世さんは手際よく朝食を準備され、直ぐに庭にいた私に声を掛けて下さいました。 食堂に入ると、狐色のトーストと卵にベーコン、それに野菜を並べて下さってました。 そして淹れたての珈琲が置かれます。 私は珈琲に砂糖とミルクを入れて匙でかき混ぜました。 「良かったですね。要さん。これで立派な小説家ですね」 希世さんはニコニコと微笑みながら言われました。 私は首を横に振ると、 「そんな私なんて…」 と口をモゴモゴと動かすだけで、声にならない言葉を発すると、希世さんは笑っておられます。 先生が一向に起きられる気配がありませんでしたので、希世さんも一緒に食卓に座られ朝食を食べられます。 希世さんは近くに住んでおられる様ですが、お住まいも年齢も不詳のままです。 ドイツ語やロシア語の本なども見ておられるのですが、ご本人は挿絵と単語だけで内容は分からないと仰います。 何処までも謎の多い女性です。 「そう言えば、これを応接間で見つけたのですが…」 希世さんは昨日、私が隠しておいた郵便物をテーブルの上に置かれました。 「あ、それは…」 私は慌ててその先生宛の郵便物を手に取り、隠しました。 「ロザーナ・ラインハルトさんと言えば、シズカの子供の里親さんですよね」 希世さんはニコニコしながら仰いました。 「はい…」 希世さんはすべてを察しておられるのでしょう。 それ以上は何も仰いませんでした。 「先生の原稿が上がりましたら、お渡しして上げて下さいね。先生の楽しみの一つですから」 私は無言で頷き、頭を掻きました。 私と希世さんが朝食を食べ終え、二杯目の珈琲を頂いておりますと、先生が起きて来られました。 私と希世さんは立ち上がり先生に挨拶を致します。 先生も小さく頭を下げ、自分の席に座られました。 いつもの様に新聞を先生の前に置きますと、先生は漱石先生の連載小説の欄を開いて読み始められました。 私と希世さんは顔を見合わせて微笑みました。 希世さんは先生が小説を読み終えられます絶妙なタイミングで食事を運ばれます。 今日も先生の前に食事が並ぶのと先生は新聞を折りたたまれるのは殆ど同時でございました。 「要君」 先生はトーストを食べながら私を呼ばれます。 「はい」 私が先生の方を向きますと、 「連載が始まったら、どうする…」 私は先生が何をどうすると訊いておられるのか分からず、首を傾げました。 「いつまでもここで書生の様な生活も窮屈だろう。何処かに部屋でも借りるかね」 私は驚きました。 「あ、いえ…そんな事は考えもしませんでしたが…」 私は慌てて立ち上がってしまいました。 先生はニコニコと微笑みながら、珈琲に砂糖を入れられます。 それを見て、取り乱した自分が恥ずかしくなり、ゆっくりと椅子に座りました。 「私は此処に居てもらって一向に構わんし、君以外に弟子を取るつもりも今後一切無いので、部屋が足らないという事もないがね」 先生は声を出して笑っておられました。 先生の悪い冗談なのかもしれませんが、考えてもみなかったので、私も心臓がドキドキしておりました。 「ところで、先生。原稿の方は…」 私は話を変えようと思い、昨夜遅くまで書いておられた原稿の話を切り出しました。 「うん。後、数枚だ。もう話も出来ている。朝食を食べ終えたら、白井君が来るまでに仕上げてしまおう」 先生は珈琲を飲みながらそう仰いました。 先生が朝食を食べ終えられ、先生は書斎へ、私は縁側でシズカに朝ごはんを食べさせておりました。 するといつもより早い時間に、郵便局員の穂積さんがやって来られ、縁側に座る私を見付け入って来られました。 「要さん、おはようございます」 穂積さんは鞄から手紙を出して私に手渡されました。 「いつもご苦労様です」 私は手渡された手紙を確認しました。 穂積さんの足元ではいつもの様にシズカが嬉しそうに飛び跳ねておりました。 おや…。 今日もロザーナさんから…。 昨日に続いて、今日もロザーナ・ラインハルトさんからの封書が届いています。 二日続けてのお手紙は今までもありませんでした。 穂積さんは今日も忙しくしておられ、さっさと次の配達へと向かわれました。 「要君。終わったよ」 先生は書斎から笑みを浮かべながら出て来られました。 「今日に限って白井君は遅いな」 先生は声を上げて笑いながら縁側の私の横に座り灰皿を引き寄せられました。 そして、私が手に持っていた手紙を覗き込んでおられます。 「お、ロザーナさんからの手紙だな…」 先生は封筒をてに取り、封を開けられました。 私は立ち上がり、食堂に置いたままにしていました、昨日の手紙を持って参りました。 「先生、昨日もロザーナさんからお手紙が…」 先生にそう声を掛けたのですが、先生は煙草を咥えられたまま、じっとその手紙を読んでおられました。 そして、私に気付くと、力なく微笑み、ロザーナさんからの手紙を私に渡されました。 私は先生に頭を下げるとその手紙を読みました。 ロザーナさんの母上がご病気になられ、ドイツへ帰国する事になった様です。 その上でシズカの子供のサンをドイツに連れて行っていいモノか、先生にお返しした方が良いモノか、悩んでいるという内容でした。 先生はロザーナさんの手紙が入っていた封筒を手に持ったまま、空を眺めておられました。 そして脇に置いた昨日届いたロザーナさんからの封筒を手に取り開けてられました。 そちらはいつもの様に、楽しそうに遊ぶサンの寫眞が入っておりました。 先生はその寫眞を並べて無言で見つめておられました。 先生からしてみると娘がドイツに連れて行かれるのと同じ事なのでしょう。 先生は咥えた煙草を灰皿で圧し潰す様に消されました。 そして並べられたサンの寫眞を無言で一枚手に取られじっと見つめておられました。 私は先生のそんな姿を見て、胸が締め付けられる思いでした。 「どうしたモノかね…」 先生は一言だけ声を発せられました。 手に持たれた嬉しそうに遊ぶサンの寫眞が震えておりました。 シズカが先生の前に座りクンクンと喉を鳴らしておりました。 先生はそれを見て微笑み、シズカに手を差し伸べられました。 シズカは嬉しそうに尾を振りながら先生の手を舐めておりました。 先生の前に並んだサンの寫眞はどれも嬉しそうな笑顔で、ロザーナさんに可愛がってもらえている事が分かります。 「サンの事を考えるとロザーナさんにドイツへ連れて行ってもらった方が良い」 先生はそう仰り、私を見て微笑んでおられます。 そしてシズカの頭を撫でながら、 「しかし、遠くドイツへ行くとなると、サンにはもう会えないな…」 「先生…」 私は何も言えず、シズカを撫でる先生を見ておりました。 「シズカ…お前はどうしたら良いと思う」 先生はシズカを撫でながら顔を近づけておられます。 シズカは尾を振りながら先生の顔を舐めておりました。 ふと気が付くと希世さんが苺の入った器を持って後ろに立っておられました。 希世さんはにっこりと微笑み、先生と私の間にその器を置かれ、ロザーナさんからの手紙を手に取られました。 「先生…」 希世さんの声に先生は顔を上げられます。 「先生は、ロザーナさんがどんな思いでこの手紙をお書きになったかお分かりですか」 希世さんは手紙を床に置くとトンと床を叩かれます。 「ロザーナさんからしてみればサンはもう我が子も同然です。その子を日本に置いて、自分だけドイツに帰ろうなど出来ますでしょうか…」 先生は口を真一文字にして苦笑しながら頷いておられます。 「先生がシズカを置いて、国に帰ろうとされるのと同じですよ。親に捨てられて置いて行かれるサンの気持ちも同じです。そんな事も分からないで、よく小説家を務めておられますね」 希世さんの口調は聞いた事が無い程強いモノでした。 希世さんは立ち上がり、さっさと厨へと戻って行かれました。 私は先生の顔を恐る恐る覗きました。 口を真一文字にしたまま、足元でクンクンと喉を鳴らすシズカをじっと見つめておられました。 先生は苺を一つ摘まむとそれをシズカに食べさせられ、スッと立ち上がられました。 「要君。ロザーナさんに手紙を書く。それを郵便局へ持って行ってくれ」 先生はそう仰り、書斎へと入って行かれました。 その夜、原稿が上がった事もあり、先生は久しぶりに酔っておられました。 「サンは多分、ドイツでも楽しく暮らす事が出来るだろう…」 先生は何度も何度も同じ言葉を繰り返されます。 「子供は親と一緒に暮らすのが一番なのだよ…」 私はテーブルに伏しておられる先生を見て、痛い程に心中を察する事が出来ました。 燗を付けたお銚子を持って希世さんが厨から出て来られました。 「希世さん。ありがとう」 先生は伏したまま寝言の様に仰っておられます。 希世さんはそれを見て微笑んでおられます。 「先生も答えはそれしかない事は分かっておられたのですよ」 希世さんは熱いお銚子を私の前に置かれました。 「希世さん。ありがとう」 先生は呟く様に何度もそう言っておられました。 すると先生は突然、顔を上げられました。 そして重い瞼を半開きにして、私を見ておられます。 「要君。君は此処を出て行かないでくれよ。どうしても出て行くと言うのなら破門を申し付ける」 そう言って私を指差されました。 私は希世さんと顔を見合わせると苦笑して、お酒を頂きました。 「良いか、破門だぞ、破門」 先生は今まで見た事の無い酔い様でした。 私は床に落ちた丹前を拾い、再びテーブルに伏した先生の肩に掛けました。 そして小さな声で、 「私は何処にも行きませんよ」 先生の耳元で言いました。 「先生。私を弟子にして頂き、本当にありがとうございます」 私は先生の肩に手を添えてそう言いました。 先生は鼾をかいておられましたが…。
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