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粗雑師匠
先週より漱石先生と関西の方へ先生が行かれてました。
私は、白井さんと一緒に先生を東京駅まで出迎えに参りました。
今回のお供のために誂えられた革の鞄を手に、先生が汽車から降りて来られましたので、私は大声で先生を呼び、手を振りました。
「要君、声が大きい」
と仰る先生の声も大きかったで、白井さんと私は顔を見合わせて笑います。
私は先生の革の鞄を持ち、東京駅の前に待たせておいた馬車まで先生をお連れしました。
「お疲れでしょうから馬車を用意しました」
白井さんは自慢げにそう仰ると、最近伸ばし始められた髭を指先で撫でておられます。
「暑いので氷でも食べて帰りますか」
先生は馬車に乗りこまれながらそう仰り、帽子を脱がれました。
白井さんも後から馬車に乗りこまれながら、
「しかし、先生。早く帰らないと鯛や蛸が腐ってしまうのではありませんか」
「鯛や蛸…はて…」
先生は首を傾げておられます。
「明石へ行かれたのですよね」
白井さんは身を乗り出して先生に訊かれました。
私には何の事かわからなかったのですが、それを聞いて先生は声を出して笑っておられました。
「白井君。流石にこの革の鞄の中に鯛や蛸は入ってないよ」
どうやら白井さんは明石のお土産に鯛や蛸を期待されていた様です。
漱石先生は新聞社の仕事で関西の明石、若山、堺、大阪で講演会をされた様です。
「私は明石の講演だけ聞いて来ましたが、漱石先生の人気は根強い事が分かりましたよ」
先生は背広のポケットから煙草を出して、火を点けられました。
「岡山からわざわざやって来たという内田君という若い物書きと知り合いましてね、明石まで漱石先生が来られるのであれば是非に会いたいとやって来たそうです」
先生の土産話は尽きません。
「ほう。流石は漱石先生ですね…。人望もおありで」
白井さんは扇子でパタパタと扇ぎながら、一言そう仰いました。
その一言に先生はムッとされ、
「人望がなくて悪かったですね」
と仰り、黙ってしまわれました。
「あ、いや、先生に人望がないと言った訳では…」
白井さんは慌てて先生の機嫌を取ろうとされましたが、こうなるとなかなか先生も頑固で、機嫌を直すのは難しいのです。
私はそんな二人を見て可笑しくなり、声を殺して笑いました。
「何がおかしいのですか」
先生と白井さんは声を揃えて私にそう仰られました。
何とも息の合った作家と編集者でございました。
その後、青山の近くまで来て、馴染みの氷屋で氷を食べて帰宅。
先生のご自宅に到着した頃には既に夕刻に近い時間になっておりました。
先生が玄関から入られ、白井さんがなかなか直らない先生のご機嫌を取りながら続いて入って行かれます。
私が最後に先生の鞄を持ち、玄関に入ろうとした時、庭に一人の男とシズカが座っているのが見えました。
普通に座っているのではなく、庭の芝生の上に正座をして頭を下げておられます。
シズカはその男の隣で鼻を鳴らしながらちょこんと座っておりました。
「先生…」
私は玄関で足を拭いておられる先生に声を掛けました。
その私の様子に先生は振り返り、
「どうしましたか」
と覗き込むように玄関から顔を出されました。
私は先生の鞄を置くと、庭を指差し、
「どなたかお客様の様ですが」
と言いました。
すると勝手の方から希世さんが来られ、
「お昼前に来られたのですが、先生がお帰りになるまで待たせて欲しいと」
と仰られました。
先生は縁側に回った方が早いと、家の中へと入って行かれました。
それに続いて白井さんも入られました。
私は先生の荷物を家の中に置くと、表から回り、庭へ入りました。
シズカが私に気付き、私の周りを走り始めます。
「ずっとああやって座っておられるのですよ…」
希世さんは私の横に来て少し困った顔をなされました。
「この暑い中、余程、先生を慕われておられるのでしょうね」
希世さんはそう仰るとそそくさと家の中に入って行かれました。
先生と白井さんが縁側にやって来られました。
それが時代劇で見る裁きのお白洲の様に見えて、私は眉間に皺を寄せました。
先生は扇子で仰ぎながら縁側に座られます。
するとすぐに白井さんが先生の前に灰皿を引き寄せられました。
先生と白井さんは互いを見て首を傾げておられました。
お二人とも面識のある方では無いようでした。
「何処かで会った事があるのであれば失礼」
先生は身を乗り出して庭に座る男にそう仰います。
「いえ、突然の訪問、大変失礼と存じましたが、先生が青山におられると知ると居ても立ってもおられず」
男は頭を芝生に擦り付けたままそう仰いました。
白井さんはにっこりと微笑むと先生の横にストンと座られました。
「要君が訪ねてきた日の事を思い出しますね」
白井さんも扇子を出し、パタパタと扇ぎ始められました。
「白井さん」
私は、照れ臭くなり、先生の傍に立ちました。
先生は咳払いを一度されると、口を真一文字にして、腕を組まれました。
「で、君は…」
先生は脱いだ上着を取るとポケットから煙草と燐寸を取り出し、自分の前に置かれます。
「はい、小生は一高生であります、芥川龍之介と申します」
先生は白井さんの顔を見て、また首を傾げられました。
「芥川…芥川…」
先生は記憶を辿る様に何度もそう口にされます。
「はい、塵芥の芥に三本川の川で芥川です」
先生は小さく何度か頷かれると、傍に置かれたグラスに目をやられました。
どうやら希世さんがこの芥川さんのために淹れたお茶だったのでしょう。
一目に何時間も手を付けずにそこに置いてあった事が分かります。
「芥川君、とにかく顔を上げてください」
先生はそう仰ると胡坐を崩し、縁側から両の脚を投げ出されました。
芥川さんはゆっくりと顔をお上げになられました。
先生は無言でまじまじと芥川さんの顔を見ておられました。
そして口元を緩められました。
「流石は一高生だな…。賢そうな顔をしておられる」
先生のその言葉に芥川さんは小さく頭を下げられました。
「後は帝大生かな」
先生は声を出して笑われました。
白井さんも先生の言葉に頷いておられました。
芥川さんは下を向いて少し照れておられた様子でした。
「まあ、とにかく。芥川君がそこに座っておっては、犬のシズカが恥ずかしがって小便も出来まい。狭苦しい家だが、中で冷たいモンでも飲みながら話を聞こうじゃないか…」
先生はそう仰ると立ち上がられました。
芥川さんは頷き立ち上がろうとされますが、長時間正座で先生を待っておられたので、足が痺れ、上手く立てない様子でした。
私は慌てて芥川さんを支えました。
「かたじけない」
芥川さんは私に小声でそう仰いました。
「要君。芥川君を食堂へお連れして」
先生はそう仰り、ご自分の部屋へと着替えに向かわれました。
私はその先生を芥川さんを支えたまま見送りました。
「要さんとやら…」
芥川さんは私の耳元でまた小声で仰います。
「はい、なんでしょうか」
痺れた足をトントンと芝生に叩き付けながら芥川さんは、
「かたじけないついでに、厠を貸してもらえないでしょうか」
そう仰られました。
私は、肩を貸して、
「お、お連れ致します」
と、答え、玄関へと彼を担ぐように歩きました。
応接間もあるのですが、西日が差し込み、暑いのです。
先生は夏の間は応接間を使わず、よく食堂でお客様と話をされます。
私と白井さんも同席し、希世さんは先生が好んで飲まれる氷珈琲をテーブルに出されました。
芥川さんは無言で希世さんにも頭を下げられました。
誰も言葉を発せず、ただ柱時計の時を刻む音だけが食堂に響いておりました。
先生がおもむろにテーブルに置いた煙草を取り咥えると燐寸で火を点けられました。
燐寸の燐の香りと、先生の煙草の甘い香りが漂います。
「芥川君…」
辛抱堪らず、白井さんが口を開かれました。
芥川さんは白井さんの方を見られます。
白井さんはポケットから名刺を出して、芥川さんに渡されました。
「先生の担当編集者をしております、白井と言います」
芥川さんは礼儀正しく頭を下げられると、再び椅子に腰かけられました。
そして、今度は私の方を見られました。
「あ、彼は先生のお弟子さんで要君です」
白井さんは私の事を紹介して下さいました。
「要です」
私も芥川さんに頭を下げると、芥川さんは立ち上がり私にも頭を下げて下さいました。
先生は黙って煙草をお飲みになられながら、そのやり取りをじっと見ておられました。
「で、今日は何故、先生の所に…」
白井さんは微笑みながら芥川さんに訊かれました。
その言葉を遮る様に先生が今度は口を開かれました。
「芥川龍之介君…と、言ったね…」
先生の言葉に、芥川さんは体ごと先生の方を向かれました。
「はい」
歯切れの良い一高生らしい返事だと私は思いました。
「話を聞こう…と言いたいところだが、まずは希世さんの淹れてくれた氷珈琲を飲みなさい。炎天下でずっと座っていたのだろう。体が水分を欲してる筈だ」
先生は煙草を灰皿で消しながらそう仰られました。
芥川さんは先生に深く頭を下げられると、グラスに入った氷珈琲を殆ど一気に飲み干されました。
その様子を見て、先生は希世さんに芥川さんの氷珈琲のお代わりを頼まれました。
「あの…」
突然芥川さんが声を発せられました。
その声に私は体がビクリとなった程でした。
「私も煙草を飲ませて頂いてもよろしいでしょうか」
芥川さんは目を伏せたままそう仰られます。
先生は目の前に置いた有田焼の大きな灰皿を自分と芥川さんの間に置かれました。
「失礼します」
芥川さんはそう頭を下げられると学生服のポケットから煙草と燐寸を出して、一本咥えると火を点けられました。
先生の煙草とは銘柄が違います。
漂う香りも違っておりました。
「ふむ…。その煙草は飲んだ事がないな」
先生は芥川さんの煙草に手を伸ばし、包みを見ておられました。
「よろしければ」
芥川さんは先生にその煙草を勧められました。
先生はにんまりと笑うと一本取り出し、火を点けられます。
「うん…。なかなか美味い」
先生は満足そうに煙を吐き出されました。
その後、二人で煙草の話を始められました。
若いのに芥川さんも煙草が好きな様子で、先生の煙草を吸ったりして、気が付くと食堂は煙で真っ白になっておりました。
その様子を呆れて見ていた私と白井さんに気付き、先生は咳払いをされると襟を正され座り直されました。
「では、そろそろ、芥川君の話を聞こうか」
先生は氷珈琲を口にされ、芥川さんの方を見ておられます。
芥川さんも座り直され、先生をじっと見られます。
そして口を開かれました。
煙草を飲む前と比べると随分と落ち着かれた気がしました。
「私は将来、物書きになろうと思っています」
芥川さんは両手を組むと胸の前に揃えられました。
「物書き。小説家では無いのかね」
先生は目を丸くして訊かれます。
「鴎外先生の仰るモノが小説であるならば、私が書きたいモノは小説ではないと思いまして…。また漱石先生の書かれておられるモノがそれであるとしても、異質なモノになるのではないか。そう考えております」
何やら難しい話になって行きます。
私と白井さんは顔を見合わせて眉を寄せました。
ただ、先生だけは真剣な眼差しで芥川さんを見ておられました。
「私の書きたいモノに一番近しいのが先生の作品であると思い、先生の所に訪問させて頂いた所存でございます」
先生は珍しく口をへの字に曲げられ、頷いておられます。
白井さんは鼻の下の髭を触りながら、
「先生の書かれる作品も立派な小説だと思うのですが…」
そう話を挟まれました。
「無論、私もそう思っています」
芥川さんは白井さんの方を向き、そう仰られました。
そして、先生の方を向き直されました。
「先生、教えてください」
その言葉に先生は圧倒されたのか、少し身を引かれました。
「何かな…」
「今の、この大日本帝国の明治の世で、正解なる文学とは何処にあるのでしょうか」
「正解なる文学」そんな事を私は一度も考えた事がありませんでした。
この芥川さんは私のどれだけ上を行っているのでしょうか…。
私の中に重く、得体の知れない不安が生まれました。
先生は腕を組み、目を閉じられました。
「徐々にだけど、文学は変わっていってると私は思うよ」
白井さんは芥川さんに笑顔でそう仰います。
「ええ、私もそう思います。鴎外先生の崇高な人々に向けたような作品と漱石先生の庶民に向けた作品にも大きな違いがあります。しかし、私の読みたい作品はもっともっと庶民寄りの作品で…」
芥川さんの熱意のようなモノが伝わってきます。
それが私には大きな焦燥になって行きます。
「勘違いしないで欲しいのですが、私は鴎外先生も漱石先生も尊敬しております。もちろん先生も」
勢い余って立ち上がられた芥川さんは、目を閉じたままの先生をちらと見られました。
しかし、先生は黙ったままでした。
芥川さんは熱くなった自分を少し照れるように頭を掻きながらゆっくりと座られました。
すると先生が目を開かれました。
「この議論は晩飯の後にしよう。芥川君も晩飯を食っていきなさい。断る事は許さんぞ。君は私にこの上なく難しい問題を解かせようとしている。私が君にその解答を出すまで付き合ってもらうよ」
先生はグラスに残った氷の溶けてしまった氷珈琲を飲み干して食堂を出て行かれました。
その先生の姿を見送った白井さんは何故か楽しそうで、ニコニコ笑いながら先生の後を追われました。
私は芥川さんと二人、食堂に残されました。
芥川さんに何か話掛けようとしましたが、何も思い付きません。
「要さんは何故先生に弟子入りをされたんですが」
芥川さんは先程までと違い、落ち着いた声でそう訊かれました。
私は顔を上げて、芥川さんの目を見ました。
多分純粋に「正解なる文学」を探しておられる目なのでしょう。
その視線が体に突き刺さるような感じがしました。
私は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しました。
「芥川さんのような難しい事はわかりませんが…」
私の声に芥川さんは少し身を乗り出した様に見えました。
「先生の書かれる小説が好きなんです」
芥川さんは目を丸くして私を見ておられます。
「正解とか、間違いとか…。そんなモノがある事さえ私にはわかりません。ただ、先生の小説には色や音、匂い、息遣いさえ感じました。まるでキネマを見ているような錯覚さえ起こしてしまう。そう感じました。もちろん私の感覚でしかありませんが、私にはそう見えたのです。文学がどうの何て考えてもみませんでしたし、将来のこの国の文学の事なんて、もっと偉い、学者と呼ばれる人たちが考えればいい事だと思っていました」
私は自然に頬が緩むのを感じました。
「小説を書く事が職業ではなく、道楽…そう、道楽であってもいいのではないかと、私は思ってます。書く事を楽しむ事が出来たら、読む人も楽しめるんじゃないかって」
芥川さんはテーブルの上の煙草に手を伸ばされました。
「しかし、それでは我が国の文学が…」
芥川さんは煙草の包みの中から一本煙草を出して咥えられました。
「数学みたいに正解は一つじゃないといけないんですかね…文学って」
私の言葉に芥川さんの燐寸を擦る手が止まりました。
「鴎外先生も漱石先生もうちの先生も、もちろん芥川さんの書かれる小説も、私の書く小説も…。全部文学で良いんじゃないですかね…」
火の点いた燐寸がどんどん燃えていきます。
芥川さんはその燐寸を灰皿に捨てられました。
「音楽って音を楽しむって書くじゃないですか、文学も本当は文を楽しむにしたかったのかもしれないですよ。けど古来の「文楽」ってのがあるから、仕方なく文学にしたのかもしれませね」
私はそう言って微笑みました。
それが私の精一杯でした。
「はいはい、食事の準備をしますので、お二人とも向こうに行ってて下さい」
希世さんが料理を乗せた盆を持ち厨から出て来ましたので、私と芥川さんは食堂を出ました。
腕を上げた希世さんの夕食はビフカツでした。
白井さんの知り合いから送って頂いたトマトケチャップとウスターソースを混ぜて作ったソースが美味しくて、白井さんはご飯を三膳も食べておられました。
食後の珈琲と、希世さんが作られたプディングがテーブルに並べられました。
「これは何という食べ物なのでしょうか…」
芥川さんはプディングを不思議そうに眺めておられました。
「これはプディングというお菓子だ」
先生は皿を持ってプディングをプルプルと揺らしておられます。
「卵と牛乳を固めたモノだ。甘い茶碗蒸しだと思えばいい」
先生は芥川さんに説明し、匙をプディングに入れられます。
それを見て芥川さんもプディングをすくって口に運ばれました。
「なるほど…これは美味しい…」
そう仰いました。
その声が心の底から吐き出された様に感じ、私と白井さんは笑ってしまいました。
プディングを食べ終え、珈琲を飲みながら、先生は煙草を飲んでおられました。
「芥川君…」
先生の声に全員が先生を見ました。
すると先生はテーブルに手を突いて深く頭を下げられました。
「さっきの君の問に対する答えを私は準備出来なかった。すまん」
先生はそう仰いました。
芥川さんは黙ってその先生を見ておられました。
「ただ、私から君に言える事がある」
その言葉に芥川さんは体ごと先生の方を向かれます。
「君は漱石先生の門下生に、いつかおなりなさい。漱石先生は先生の魅力をまだ完全に書いておられない。君が知っている漱石先生は先生の作品を通してでしかない。先生自身を知るとその魅力に君も気付く筈だよ」
先生は灰皿に置いた煙草を取り、一口飲まれました。
芥川さんはその先生をじっと見つめられます。
「先生の弟子にして頂く訳にはいかないのでしょうか」
芥川さんは絞り出すように仰いました。
それに先生はゆっくりと首を横に振られます。
「私は誰かに何かを教える事に世界一向いていない小説家だ。だからそこの要君は世界一不幸な弟子という事になる」
白井さんは声を殺して私の横で笑っておられました。
私はその白井さんの脇腹を肘で突きました。
先生はカップを持ち、珈琲を一口飲まれます。
「先程、要さんに教わりました。書き手が楽しむ事が読み手の楽しみに繋がるって事を」
芥川さんは俯いてそう仰います。
先生はその言葉に何度も頷かれました。
「その通りだよ。文学としての小説を書こうとして後の文学になった作品なんて世の中にあるのだろうか。そう考えた。しかし、その答えはわからない。楽しんでもらおうと思って書いたモノが後の文学になったって方が信憑性もあるだろう」
先生は微笑んで芥川さんの肩をポンポンと叩かれました。
「君は頭がいい。それ故に究極の文学ってモノを探してしまっている気がするよ。帝大に行きなさい。それでも小説を書きたければ、漱石先生の所に行きなさい。君のような人物が漱石先生の後を継ぐのだろう。私のような異端な小説家の弟子は、そこの要君くらいしか務まらない」
先生はそう言って声を出して笑っておられました。
芥川さんは突然立ち上がり、先生に深々と頭を下げられました。
「ありがとうございました」
少し声を張ってそう言われます。
そして今度は私と白井さんの方を向いて、同じ様にされました。
先生はそれを微笑みながら見ておられました。
芥川さんを見送り、白井さんも帰って行かれました。
私と先生は風の通る縁側で、いつもの様に麦酒を飲んでおります。
「要君の言葉、良かったよ」
先生はボソッと言われます。
私は勢いよく先生を見ました。
「聞いてらっしゃったんですか」
先生は微笑まれます。
「彼みたいな人間は真剣に文学と向き合い、それに悩み、いつか体を壊す。漱石先生も同じだ。その先生が明石の講演で話した内容が「道楽と職業」についてだった。最も先生から遠い現実だった」
先生は空のグラスにビールを注がれました。
「芥川君には冷たい答えだったかもしれんが、私の出来る精一杯の解答だよ」
私は夏の月を見上げる先生の横顔を見て微笑みました。
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