12月20日

1/5
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/38ページ

12月20日

 12月20日(土)  凍り付くように冷たい風が、暗く静かな湖畔を駆け抜ける。  風に当てられると、まるで体中を針で突き刺されているような痛みを感じた。瑞希は薄いコートの襟をかき合わせ、体を丸めて歩いていた。  もう三日、何も食べていなかった。夕方のせいもあるだろうが、何だか視界が暗く、狭まってくるような感覚にとらわれて、足がもつれた。やっとのことで次の一歩を踏み出しながら、瑞希はポケットに手を突っ込んだ。  ポケットの中に入っている小銭を取り出して、眺めてみる。二十一円。そういえばさっきも見たんだった。子どもの頃に聞いたあの歌のように、ポケットをたたいたら増えていればいいのに。瑞希は小さく息をつくと、小銭をしまってまた歩き始めた。  あの時は必死だった。殺されると思ったから。お金なんて、持って出る余裕はなかった。それでも、手近にあったあいつの小銭入れだけはつかんで走り出た。でもあいつ、小銭入れにはたったの千四百一円しか入れていなかったんだ。きっとパチンコか競馬ですっちゃったんだろう。やってらんないよ、ったく。  瑞希は舌打ちすると、震える足を踏みしめて歩き続ける。薄暗い夕刻の湖畔。いったいどこなんだろう。あのお金で買えるだけ切符を買って電車に乗ってきたけれど、ここがどこなのかさえよく分からない。電車を降りてから、二日間飲まず食わずで歩き続けて、ここまで来たのだ。大きな池だか湖だかの横を、岸沿いにずっと歩いてきたが、あまり遠くに来た感じがしなかった。 ――疲れた。  瑞希は足を止めると、湖に目を向けた。どんよりと黒い湖面は波ひとつたてず、静かに水をたたえて黙っている。 ――死のうか。  何だかもう、どうでもいい気がした。こんなに疲れて、つらくて、独りぼっちなら、別に死んでもたいしたことじゃないような気がした。  今は12月。薄手のコートを突き刺すように、冷たい風が吹き抜ける。この気温なら、多分湖に入れば確実に溺れるか凍えるか……とにかく死ねるだろう。目の前に死ぬための場所がこれだけ用意されているというのに、どうして昨日までそのことに気がつかなかったんだろう。瑞希は何だかおかしくなって、くすっと小さく笑った。  瑞希は靴を脱いだ。どろどろになった、フェラガモの靴。彼がプレゼントしてくれた靴だ。きれいに拭いて、リサイクルショップにでも売れば、幾ばくかのお金にはなるかもしれない。でも、彼女にはもうその気力がない。生きるために労力を使うだけの、気力が。生きるということに、それほどの魅力も、必要性も、もう感じられなかった。  自分の十七年間の人生を思い出してみる。楽しいことなんて、あっただろうか。多少はあったかもしれない。でも、そのほとんどが、苦しみと悲しみの連続だった。もう本当に疲れた。ただ、静かに休みたかった。この場所がそれに適しているかはよく分からなかったが、自分のような人間は、どこで死んでも別に構わないような気もした。  破れたストッキングをはいた足が、水の中にゆっくりと沈んでいく。頭の先までしびれるくらい、冷たかった。一瞬ひるんだが、それを振り払うようにもう一方の足も水に沈めた。何だかさっきより、温かいような気がする。瑞希は安心したように、さらに一歩、足を進めた。  その時だった。 「どうかしましたか?」  その声に、瑞希は口から心臓が飛び出るかと思うくらいびっくりして、振り返った。 明かりと言えば、遠く離れた道路沿いにともる街路灯が一つきり。すっかり日も暮れ、声の主の顔はほとんど分からなかったが、声からするとどうやら若い男らしい。  瑞希は何と返事をしていいか分からなかった。ただ、見られては非常にまずい場面であることだけは確かだった。後ろを振り返った姿勢で、しばらくの間、その男らしき人影の方を見つめたまま、動けなかった。  と、重心をかけていた左足が、突然ずぶずぶと泥にはまり始めた。水底が非常に緩い状態だったのに、ずっと同じ位置で体重をかけていたせいらしい。瑞希は慌てて右足に重心を移そうとしたが、同様に右足もずぶずぶと沈み込み始めた。 「きゃあっ!」  瑞希は叫んだ。死のうと思っていた訳だから水に倒れ込んでもいいはずだったのだが、反射的に声が出てしまったのだ。  瑞希の体が、あとわずかで水面と接触する瞬間。  その男の手が、瑞希の両腕をしっかりとつかんだ。  温かい、大きな手。瑞希の頭に一瞬、自分に笑いかけるあいつの姿がよぎる。  瑞希はその男に引っ張りあげられ、川岸に放り上げられるようにして倒れ込んだ。  次の瞬間。  バランスを崩したのだろう、その男が湖に落ちたらしい派手な水音が、静かな夜の空気を切り裂いて響き渡った。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!