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男のアパートは湖畔から一キロメートルほど駅方向に進んだあたりにあった。
その、何の変哲もない1DKの部屋の台所で、瑞希は足を洗っていた。洗面器にためたお湯につけると、凍えていた足が痛いくらい熱さを感じて、思わず目をつむった。
男はお湯とタオルを瑞希に渡して、自分はシャワーに入っている。実は、帰るなり瑞希に洗面所を使わせようとしたのを、瑞希が固辞したのだ。アパートの明るい光に照らされた彼の姿は、瑞希ですら憐憫の情を誘われるほどひどいものだったからだ。何か言おうとする男を、瑞希は無理やり風呂場に押し込んだ。
――さて、これからどうしようかな。
一人暮らしの大学生を、どうやって手玉に取ろうか。何とか生きていくことができそうな気がして、瑞希はちょっとわくわくしていた。まずはドロドロだからとか何とか言って、シャワーを借りるフリをして服を脱いでみせればいい。瑞希は身に付けていたワンピースのファスナーに手をかけようとした。
その時、洗面所の扉が開いた。
突然だったので、瑞希はどきっとして振り返った。そして、何でもないトレーナーの上下を着て、髪を拭きながら歩いてきたその男の姿を見て、固まった。
まだぬれて束になっている髪は、乾けばかなり茶色そうだった。どちらかといえば色白の肌に、筋の通った鼻、涼しい目もとに長いまつ毛。頭が小さくすらっとしていて、スタイルもいい。見違えるようなその姿は、幾多の男を手玉に取ってきた瑞希でさえ、一瞬言葉を失うほどだった。
思わず立ちあがって彼に歩み寄ると、背伸びをしてその頬を両手で挟む。目を丸くしている男に構わず、その顔を自分に向けさせて、まじまじと見つめる。
「あんた、超イケメンじゃん」
「そ……そうですか?」
男はいくぶん引き気味にそう答えると、ちょっと後じさったようだった。
瑞希は、顔がにやけてくるのを抑えられなかった。自分はまだまだ天に見放されていないらしい。こんないい男を手玉にとれるチャンスに恵まれたんだから。
瑞希は手を離すと、さっそくさきほどの計画を実行に移すことにした。
「ねえ、何か着るもの貸してくんない?」
「え?」
聞き返した男に、瑞希はしおらしく伏し目になって、いかにも申し訳なさそうにこう言う。
「よく見たら、ワンピースもドロドロだし、ストッキングも破けちゃったし。こんな格好じゃ歩けないから、服を借りたいの。あとで必ず返すから……」
そして、上目遣いに男を見上げ……たときには、そこに男の姿はなかった。
目を丸くして部屋を見回すと、男は、部屋の隅に置かれていたプラケースを引っかき回しているところだった。
「あ、あった。よかった」
男は、なんの変哲もないユニシロのジャージ上下を瑞希に差し出した。
「これ、ちょっと前に着てたんですけど、すぐ着られなくなっちゃって、あんまり着てないんです。Sサイズだから、女性でも多分大丈夫じゃないかと思うので」
そう言うとその男は、そのジャージを何とも言えない表情で見つめている。瑞希は少し気にはなったが、素直にジャージを受け取って頭を下げた。
「ありがとう」
言いながら、内心ほくそ笑む。ジャージの下は、何も着ないでおこう。チャックをギリギリまで下ろしておけば、たいていの男は乗ってくるはず。
すると男は、再びプラケースを引っかき回しだした。
「Tシャツもいりますよね」
「え、いや、いいよいいよ。そんなに借りちゃ悪いし」
瑞希は慌てて手を振ったが、男はプラケースから顔を上げようとしない。
「この寒いのにジャージ一枚じゃ風邪をひきますよ」
男は見かけによらず面倒見のいいヤツだった。言い淀んでいる間に、Tシャツに靴下、トレーナーを次々に渡してくる。
「あとは、暖房かければ寒くないでしょう」
男はそう言うと、にっこり笑った。下心など微塵も感じられない優しい笑顔だ。瑞希はなんだか何も言えなくなって、素直に洗面所に向かった。
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