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「なにをされても、あたしは、シャブだけは絶対にやらない! それは前にも言ったはずだよ!」
「……んだと? このクソ女!」
男は悪鬼のごとき形相で瑞希をにらみ据えながら、一歩彼女に詰め寄った。
だが、瑞希はまっすぐに男を見つめながら、ほとんど叫ぶように言い切った。
「あたしは絶対にシャブなんかやらない! 怖いんなら、殺せばいいだろ! あたしだって、シャブをやるくらいなら、死んだ方がマシなんだ!」
その言葉で、男は完全にキレたらしい。無言で注射器をポケットにしまうと、震えあがるような形相でにやりと口の端を上げた。
「そうか。なら、殺してやるよ」
瑞希は息をのんで後じさった。男は本気だ。その目は、半分正気を失っている。どうして自分はあんなことを言ったんだろう? 生きるためなら、シャブをやるくらい今更どうでもよかったはずなのに。瑞希は自分で自分が分からなかった。
あの時。彼女の頭をよぎったのは、紺野だった。瑞希のために、親身になってあれこれ考えてくれていた、紺野。シャブなんかうたれてしまったら、それこそもう二度と紺野には会えない気がした。それが、たまらなくつらかったのだ。
男はゆっくりと瑞希に詰め寄ってくる。そうだ。今ここで死んだら、もう紺野には会えない。そんなのは嫌だ。瑞希は、体の底から不思議と力がわいてくるのを感じて、両手をぎゅっと握りしめた。
次の瞬間、瑞希は地面を思い切り蹴って芦の林を飛び出した。男を体ごと突き飛ばし、茂みを抜け、細い砂利道をただもう無我夢中で走った。
――死にたくない!
走りながら瑞希は、強く心にそう思った。冷たい風が頬を切り裂くように吹き抜ける。その風に流され、涙が後ろに飛んでいった。
だが、そこまでだった。
走る瑞希の襟首を、追ってきた男の手がつかんだ。首が絞まって、瑞希は息が止まるかと思った。そのまま後ろに引っ張られ、勢いで思い切りしりもちをつくような格好で倒れ込んだ。
「このクソが!」
男は足を振り上げ、瑞希の腹を思い切り蹴り飛ばした。一メートルほど蹴り飛ばされた瑞希は、低くうなって、道ばたに転がった。
男の足音が近づいてくる。瑞希は目を固くつむった。もうダメなんだ。ここであたしは、死ぬんだ。誰にも知られずに、こんな男に殺されて。瑞希は涙を流しながら体を丸めた。もうそれ以上は動けなかった。
「立て!」
男はうずくまっている瑞希の髪をつかんで引っ張り上げた。瑞希は苦痛に顔をゆがめて息をのむ。恐る恐る目を開けると、悪鬼のような形相で瑞希をにらみ付けている男の顔が飛び込んできた。
――これが、あたしが好きだった、あの男?
瑞希の目から涙があふれた。白い頬を幾筋も流れ落ちる。
男は嗜虐の喜びにゆがんだ笑みを浮かべながら、握り拳を高々と振り上げた。
――殺られる!
瑞希は目をつむり、呼吸を止めた。もう何も考えられなかった。
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