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湖を渡る風が、焼けるように痛む瑞希の頬をなでていく。
男の拳は、いつまでたっても飛んでこなかった。いぶかしく思った瑞希は、恐る恐る閉じていた目を開けた。
そして、その目を大きく見開いた。
瑞希の目の前に、誰かが立っている。その誰かが、まるで瑞希を守るかのように背にかばい、無言で男とにらみ合っているのだ。
グレーのパーカーにジーンズ姿の、すらっとした男。茶色いさらさらの髪が、風に揺れている。
その後ろ姿に瑞希は、確かに見覚えがあった。
――紺野、くん?
「誰だ? おまえ……いったい、どこから」
男は拳を振り上げた姿勢のまま、ぼうぜんと問いかける。確かについ先ほどまで、この湖畔には自分と瑞希の二人きりしかいなかったはずだ。だがこの男は、本当に降ってわいたかのように、こつ然と目の前に現れたのだ。混乱するのは当然だった。
「すみませんでした、瑞希さん。こんな状態になるまで気がつかなくて……」
紺野は男の問いには答えず、後ろにいる瑞希を横目で見やってこう言うと、小さく頭を下げた。
無視されたと思ったのだろう、男は紺野の襟首をつかみ上げると、いきりたって怒鳴りつけた。
「誰だって聞いてんだよ、答えろ!」
裏返った声で叫ぶと、般若のような形相で紺野をにらみ付ける。だが、襟首をつかみ上げられた紺野は、眉ひとつ動かさずに男を見やると、静かに口を開いた。
「先ほど、警察に連絡しました。僕の話だけでは信用していなかったようですが、さっき市役所の方からも連絡が行ったようなので、間もなくここに来るでしょう」
警察と聞いて、男の顔色が変わった。紺野の襟首をつかんでいる手が、わなわなと震えだす。
瑞希はそんな二人の様子を、半ばぼうぜんと見つめることしかできなかった。突然の紺野の出現で、思考がほぼ停止状態に陥っていたのだ。
すると突然、紺野の襟首をつかみ上げていた男が、自分の懐にさっともう一方の手を入れた。
瑞希はハッとした。彼はいつもあそこに、護身用のナイフを忍ばせていたはずだ。自分はこのナイフで二人の人間を殺したと、いつも得意そうに言っていた。この男は人を殺すことなど何とも思っていない。このままでは紺野が殺されてしまう。瑞希の全身を、ぞっと寒気が走った。
「危ない! 紺野くん!」
瑞希は声を限りに叫んだ。だが、男の手に握られたナイフは瑞希の叫びより一瞬早く、紺野の懐を目がけて風を切った。
瑞希は固く目をつむって顔を背けた。
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