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およそ三ヶ月前。
網の上でじゅうっと美味しそうな音をたてるステーキをトングで持ち上げ、焼き加減をたしかめていると、テーブルの方から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。奈緒が顔をあげ声の方に目をやる。息子の健斗がお腹を抱えて笑っている姿に目を細めた。
この日は、四月から大学生になった健斗の誕生パーティだ。息子がたくさんの友達に囲まれている姿を微笑ましく見つめた。
青く抜けた空にバーベキューの煙がもくもくと立ち昇り、上質な肉がいくつもの若い胃袋にすいすいと消えてゆく。焼き上がった肉や野菜を取り分けると、あっという間にきれいになくなる。
天気に恵まれた格好のバーベキュー日和だが、とにかく暑い。メイク崩れも気にせず、エプロンの端で汗を拭いながら、奈緒は懸命に調理をつづけた。食材が足りるかしらと不安になりつつも、久しぶりの忙しさを楽しんでいた。
奈緒が喉を潤そうとテーブルに着くと、対面の安藤真紗也が母家の方を見ていた。健斗から、一番の仲良しだと聞いていた子だ。
「安藤くん、どうかしたの?」
「いえ、あらためて大きな家だなあって思って」
真紗也がTシャツのお腹をさすりながら、ぐるりと見まわす。都心の一等地とは思えない広大な敷地に、みなが口々に「ねー」と、ため息を漏らした。
日本家屋風の母屋から広がる美しい芝。優雅に錦鯉が泳ぐ池。塀に沿って風にそよぐ庭木。陽光に映える丸く刈られた松。その傍らでは脚立の上で藍染の法被を纏った庭師が剪定をしている。
「僕は松とか素人ですけど、やっぱり綺麗ですよね」真紗也が感嘆したようにこぼす。
「あら、ありがとう。小まめに剪定しないとならないから大変なのよ」
いいながら奈緒が、真紗也に紙ナプキンを手渡す。
「お口のまわりテカテカよ」クスリとする。
「あ、すいません! すごいご馳走なんでがっついちゃって」
「いいのよ、みなさんももっと召し上がって」
全員が「はーい」と声をそろえる。
奈緒は腰を上げてコンロまで足を運び、網に野菜を並べはじめた。
真紗也がスッと立ち上がり、奈緒の傍らに近づく。
「僕が代わりますよ。お母さんは座って召し上がっててください」
「あら、大丈夫よ。お客さまなんだから座ってて」
「でも、ずっと焼いてばっかりで食べてないですよね。僕、料理なれてるんで」
真紗也は奈緒の手からトングを奪うと、慣れた手つきで食材を網に並べた。
「安藤くんて、優しい子ね」奈緒が、隣に座る健斗に顔を向ける。
健斗が声を落とす。
「うん……あいつお母さんいなくて父親と二人だから、料理も自然におぼえたって。ああ見えて人一倍苦労してるから、優しいんだよ」
「そうなの……」
医者の娘に生まれ、何不自由なく育った奈緒には、想像しにくい話だった。
奈緒の夫、俊之の実家は明治時代から続く貿易会社で、俊之は三代目の社長だ。俊之の弟は外科医で、親戚も弁護士や代議士、実業家などだ。この屋敷周辺の土地も神宮寺家の所有で、神宮寺の名を冠したマンションや雑居ビルを複数所有している。
真紗也が、美味しそうな焼き目のついた肉や野菜をトングで取り分けていると、正門から続く石畳に、夫の俊之が姿を見せた。
「みなさん、健斗がお世話になっています」
よく通る声でにこやかにいいながら、俊之がテーブルに近づく。
皆がいっせいに「おじゃましてまーす!」と声を揃える。
「私もいただこうかな」
デッキチェアに腰を下ろした俊之が、トレイを手に給仕をする真紗也を見やり、顔を曇らせた。
「おい、お客さまに失礼だろ!」
咎めるような目を奈緒に向ける。
突然の俊之の剣幕に、場がしんとなる。
「あの……」
咄嗟に真紗也がいいかけたとき、「ごめんなさい!」と、奈緒が腰を上げた。
奈緒は小走りで真紗也に近づき「安藤くん、ごめんね」と、トングとトレイを強引に奪い取った。
「まったく……」
俊之は一転して明るい声で「さあ、みなさん食べて食べて」と、笑顔を振りまいた。
奈緒は残りの食材を網に並べて黙々と調理に努めた。煙が目に沁みて涙がにじんだが、そっとエプロンで拭った。
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