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 昨日から降り続ける大粒の雨が、霧のように激しく地面を叩いていた。  アパートの玄関扉の前で傘の雫を払うと、奈緒はためらいながら、真紗也の部屋の呼び鈴を押した。  前の晩、真紗也が体調を崩してしばらく授業に来ていないと健斗から聞いて、見舞いに訪れたのだ。  部屋の中から「はい……」と真紗也の声がして足音が近づいてくる。胸がざわざわする。息子と同い年とはいえ、男性の一人暮らしの家を訪れたのは生まれて初めてだった。  半分開いた玄関扉から顔を覗かせた真紗也は、奈緒を見て目を丸くした。  奈緒は言い訳のように早口になる。 「健斗から聞いて真紗也くん大丈夫かなって」 「ちょっと風邪こじらせて……」  (かす)れた声の真紗也が咳き込む。頬がこけ目の下に隈ができている。 「ちゃんと食べてる?」 「いえ、この雨でコンビニ行くのもおっくうで」 「だと思った。お(かゆ)作るから食べなさい」  奈緒は微笑んで、食材の入ったショッピングバッグを掲げて見せた。  湯気が立ち上るお粥を、奈緒が息を吹きかけて冷まし、真紗也の口に運ぶ。 「熱いから気をつけて」  真紗也がほふほふしながら、ゆっくりと粥をすする。真紗也の髪の生え際にうっすら浮いた汗を、奈緒はタオルでぬぐってやった。 「俺、こうゆうの初めてで……お母さんいなかったから」  真紗也が三歳のときに、母親は病で亡くなったという。幼稚園に母親が迎えにくる子や、小学校の授業参観にお母さんがくる子が、ずっとうらやましかったと、心の内を吐露(とろ)した。 「真紗也くん、お風呂も入ってないでしょ」 「え? 匂います?」 「違うわよ。ベタベタして気持ち悪いでしょ。さ、上脱いで」と、ボディシートを取り出す。  真紗也は恥ずかしげにしていたが、「すいません」と上半身のパジャマと下着を脱いだ。  奈緒は、真紗也の背中から腰にかけて丁寧に拭いた。 「なんか、介護老人の気持ち」  アハハと奈緒が声を立てたとき、窓の外が閃光で真っ白になり、ガラガラドーンと天井を震わすような轟音が響いた。 「キャアッ」  天井の照明や家中の電気が落ち、部屋が暗闇になった。窓の外も、昼下がりとは思えないほど真っ暗で不気味な静寂に包まれていた。 「奈緒さん、だいじょうぶ?」  とっさに真紗也に抱きついていた奈緒は、ハッとして顔を上げた。耳が熱くなる。 「奈緒」と名前で呼ばれたのは、いつ以来だろう。夫からは、「おまえ」や「母さん」としか呼ばれない。健斗は「お母さん」。家政婦は「奥様」だった。あの家では誰も、自分を奈緒と呼んでくれない。ふいに奈緒と呼ばれ、熱いものが込み上げてきた。思わずこぼした涙を気づかれまいと、真紗也の背中に顔をうずめた。 「奈緒さん、泣いてるの……?」  奈緒が無言で顔を左右にふると、真紗也はぎゅっと奈緒の肩を抱き、奈緒の唇に唇を重ねた。奈緒は驚いて反射的に身体を離す。 「奈緒さん。はじめて会ったときからずっと好きでした。健斗のお母さんじゃなくて、一人の女性として」  真紗也の迷いのない言葉が胸に刺さった。  奈緒は真紗也の頬に手を添え、吸い寄せられるように、自ら唇を重ねた。
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