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ふと目が覚めたとき、つい隣にあるはずのないぬくもりを探してしまう。もう、貴方は何処にもいないと云うのに。
涙でぼやけた視界に、白く無機質な天井が映る。温もりを探した手は、何を掴むともなくシーツの上に落ちた。眼球が熱くなる。
ぎゅっと毛布を握って、背中を丸めて。嘲笑うように揺れるカーテンの下、嗚咽をこらえる。貴方の痕跡も香りも、全てが消えうせた此の部屋で。
「……何処に、居るのかな…」
何度発したかわからない言葉を繰り返す。五月の風が吹き込んで、緩やかに頬を撫でた。
瞳の熱が治まったところで、もそりと体を起こす。今日もまた、無機質で何の色もない無彩色の日々が始まるのだろう。
「逢いたい、」
貴方の声は、もう思い出せない。縋る場所もなく、寄る辺もなく、もうそろそろ、呼吸の仕方さえ解らなくなってきた。
五年前、「さようなら、傍に居られてよかった」なんて、陳腐な台詞を記した紙切れ一枚と、勿忘草一輪だけを置いて、此の部屋から出て行ってしまった貴方。何で居なくなってしまったのか、なんて、訊くことすら出来なかった。
(僕が、男だから…)
だから、貴方は居なくなってしまったのだろうか。
同じ性別を持ちながら、恋人になった僕達。此の国の“普通”とは違った僕達。だから、“普通”で在りたかったから、貴方は僕の元を離れたのだろうか。
ふぅ、と息を吐いて立ち上がる。貴方が僕の隣に居なくても何の支障もないと笑うように、世界は回り続ける。何度も日は昇り、沈みを繰り返す。何度でも、僕を嘲笑う。
寝巻からちゃんとした服に着替えて、台所へ向かう。目を覚ますために、珈琲を淹れよう。貴方の幻影から、少しでも逃れるためにも。
欠伸を溢しながら、珈琲豆を挽く。碌に呑みもしないのに、珈琲を淹れるなら豆を挽いてから淹れるべきだと煩かった貴方。「煩いなぁ」と返せば「だってそっちのほうが絶対美味しいじゃん」と頬を膨らませた貴方。
(嗚呼もう、)
貴方の幻影から逃れたかったのに、僕の生活に、僕の細胞に、貴方が染みつきすぎて、結局逆効果だ。瞳を伏せながら珈琲を淹れる。
(いつもは、此処までじゃないんだけどな)
今日は、貴方が居なくなった日だからだろうか。だから、何気ない色や音にすら、貴方を探してしまうのだろうか。
ふわり、立ち上る珈琲の香りを嗅ぎながら、コップを取り出そうとすると、かちゃり、という鍵の開く小さな音が聞こえた。
思わず固まると、続いて聞こえたのは玄関のドアが開く音。慌てて、コップを手にしたまま玄関に向かえば、顔を出したのは懐かしい貴方だった。思わずコップを取り落とす。派手な音がして、破片が散った。
(嗚呼、)
貴方の香り。懐かしい貴方の瞳。ずっと、ずっと、五年間忘れられなかった貴方が、其処に居る。どうしようもなく、視界が歪んで瞳が潤んだ。
「だ、大丈夫…⁈怪我…」
「…っ、大丈夫な訳、ないでしょう⁈五年…っ、五年ですよ…!今まで、何処に…!」
「君と居たかったから。だから、離れた」
鋭く尖った破片を避けながら、彼は僕のもとに歩み寄る。そっと手を伸ばし、するりと僕の頬を撫でた。
「……ごめんね。僕は、君ほど強く在れなかった。少しずつ変わってきてはいるけど、この国はまだ、同性愛に対する理解が十分とは言えないから。もし僕らの関係がバレて、君が傷つくようなことがあったら、耐えられないと思った」
「……言葉足らずは…、悪い癖だって、常日頃から…」
「ごめん。だけど…」
痛そうに目を細めて、それでも彼は儚く微笑んだ。
「また、会えた。君に触れられた。……僕は、今はそれでいい」
なんて、相も変わらず欲のないことを言うから。嗚呼、帰ってきたんだと実感して、また涙が溢れ出す。
「……よくない、です…それだけじゃ、よくない…っ」
ふるふると首を振って、泣きじゃくりながら言う。貴方はぱちぱちと瞬きをした。
「これからも、ずっと…ずっと、傍に居てくれなきゃ、嫌ですよ…」
ぐしゃぐしゃの泣き顔で、睨みながらそう告げると、彼はふわりと笑って、僕を抱き締めた。
「――うん、絶対離さない。今度こそ、絶対、死ぬまで君の傍に居るから」
痛いほどに強く抱き締められて、僕の涙腺はいよいよ本格的に崩壊した。
「…っ、う、うああああああ…っ」
大きな声を上げて泣きじゃくる。貴方の香り、貴方の声、貴方の体温。五年間ずっと、ずっと忘れられなかった。ずっと、ずっと恋しくて、焦がれていた。
(また、逢えた)
また、傍に居られる。また、貴方に抱き締めてもらえる。それだけで、今まで失われていた色が取り戻されていく。
ようやく泣き止んで、呼吸を整えていると、ふわり、珈琲の香りが鼻を擽った。
「……珈琲、淹れたんです。よかったら、一緒に」
「休みませんか?」
珈琲の花言葉にかけたのを悟ったらしい。くすくすと笑いながら、彼は続けた。
「……一緒に休みたいと思えるのは、貴方だけ、ですから」
はにかみながら言えば、彼は嬉しそうに笑う。
「また、会えたから。いくらでも君と休めるし、いくらでも君に好きだって伝えられるね」
「…そうですね」
ふっと笑えば、彼ははしゃいだように微笑み、手を握ってくる彼。戻ってきた日常と色彩に安堵しながら、僕は恋人と並んで台所へと戻った。
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