夢から来た少女

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 小さなころから物語が大好きだった。「赤ずきん」や「白雪姫」のような童話も、「桃太郎」や「かぐや姫」のような日本の昔話も、幼稚園に置いてあった絵本も、小学校で読んだ学級文庫も、みんな好きだった。私もいつか、物語を書きたい。将来は作家になって、たくさんの物語を世に生み出すんだ――。  悲鳴、歓声、騒音。終業式の日のHR教室は騒がしい。担任の教師から渡された通知表を手に、喜び合ったり絶望したり。鈴音(すずね)はざわめきの中、手渡された通知表のある一点を見つめていた。「5」という数字が付くのは、いつも国語だけ。しかし、この数字を貰っているのは自分だけではないはずだ。たとえば、この1学期の期末テストの学年1位は自分ではなく同じクラスの河村さんだった。彼女はどの教科でもだいたい5を取っているようだが、将来は理系の大学に進むと聞いている。同じように国語で「5」を取っていても、鈴音とは全くタイプが違う。国語が得意だからといって、作家になれるわけではない。第一、好きな作家の何人かは、「学生時代は国語が苦手だった」と公言しいる。だから、誰にでもチャンスはあるのだと――。それは裏を返せば、国語が得意な人間にはかえってチャンスがないということなのではないか。小さいころから本ばかり読みすぎたせいか、新しいことを発想できない。何を書いても、何度書いても、どこかで読んだことのあるような話になる。鈴音はため息をついた。 「何?成績、下がったの?」  今通知表を受け取ったばかりの朱里(あかり)が、背後から鈴音の通知表をのぞき込んでくる。 「何これー?私のより全然いいじゃん!」  朱里は文字通りパッとしない成績表を見せつけてきた。「これでため息とか、アタシへの嫌味か」とケラケラと笑いながら、鈴音に絡んでくる。朱里は鈴音の小説の読者でもあるが、彼女には全くもって文才がない。しかし、一般的な感覚は持ち合わせているため、面白いものには素直に「面白い」と反応し、悲しい話には決まって涙を流す。朱里が読むことによって、鈴音の小説に対する一般読者の反応が大体つかめるという寸法である。朱里は未だ、鈴音の書いた長編を読了したことがない。途中で飽きてしまうらしい。ということは、世に出しても読者から飽きられる作品となるのであろう。短編小説ならば読了し、面白いものには「これは面白かった」と言ってくれる。そう評価されたものは「投稿用」としてストックしておくが、大抵の作品に対しては「よくわかんなかった」と言われる。それは、没。「これって、〇〇に似てるよね!すごく面白い!これ、きっと売れるよ!」この評価は、すでに発表されている作品の二番煎じ。やはり、没。没、没、没……。 「別に私、審査員じゃないんだから。私の反応で送るかどうか決めなくてもいいじゃん」  朱里はいつも気楽に言う。しかし、「最も身近な読者」から高評価を得られなかった作品が、入賞するとは思えない。鈴音は、受け取った通知表を折りたたんで鞄にしまい込んだ。国語だけが「5」の通知表は、まるで出版社からの「お祈り通知」のように鈴音の心を曇らせた。  小説を書く人の多くはパソコンを使っているだろう。そんな中で鈴音はノート派だった。鈴音の執筆時間は学校の休み時間や放課後のファストフード店で過ごす時間が中心となる。そうなると高校生の鈴音の財力では、いつも持ち歩く自分専用のパソコンは買えない。その意味ではノートが一番手軽だった。また、ノートに一文字一文字、言葉を刻み付けていくほうが、いかにも「物語を生み出している」という実感が持てた。だから、文具にはこだわりを持つ。お気に入りのノートも、使い慣れたペンも、いつも同じショッピングモールに入っている文具店で購入する。終業式の日はいつもよりずっと早く放課後を迎える。部活動をしていない鈴音は、ダンス部の活動にいそしむ朱里と別れてショッピングモールへと向かった。明日から始まる夏休みは絶好の執筆期間。善は急げと、ノートやペンを買いにいつもの文具店へ走る。別に走る必要はないのだが、走る。  いつものノートを数冊。せっかくの機会だから、大作を書いて朱里に読ませたい。読み切らせたい。ペンも意外にすぐなくなるから、いくつか仕入れておく。いつものペン売り場に足を運ぶ。ふと、少し変わったペンが目に入った。昔の少女漫画のヒロインが日記を書くときなどに使っていそうな、羽根のペン。いかにも、不思議な力が宿っていそうな……。そう考えて、鈴音は首を横に振る。  うらぶれた雰囲気の骨董屋みたいなところならともかく、ここは大型ショッピングモールなのだ。こんなところに不思議な力の宿った羽根ペンなどあるわけがない。とはいえ、最後の一本だったそのペンになぜか惹かれた。どうせまたすぐ入荷されるのだろうが、趣味でこういうものを持っていてもいいだろう。基本的にはいつものペンを使うが、たまには気分を変えて、これを使って書いてみてもいいかもしれない。たとえば、ファンタジー小説などを書くのにぴったりなのではないか。鈴音は買い物かごに羽根ペンを入れた。さっそく、これを使って何か書いてみたい。そう思ったのだ。  不慣れな店員に当たったこともあり、思いのほか買い出しに時間がかかった。同じショッピングモールに入っているフードコートで少し遅めの昼食をとったあと、鈴音はそのままその席に残って、先ほど買ったノートを1冊取り出した。どこの文具店にでも売っていそうな、ありふれたノートである。しかし、鈴音はこのメーカーのノートをもう7年ほど愛用している。初めて物語を書き始めたときからである。早速ノートの1ページ目を開く。今回は、ファンタジーを書こう。  鈴音には、ずっとずっと温めていた物語があった。冒険ものである。主人公は中学生になったばかりの少年。小さいころからの友人と一緒に入学式に出席した日に、小学校時代に転校していった男の子と再会するのだ。その男の子はどこか陰りのある少年で、久しぶりに再会した主人公にも、その友人にも冷たい態度をとる。物語が大きく動くのは、入学式を終えて主人公たちが下校しているときである。突如、モンスターのようなものが街に現れる。あまりの異常事態に困惑する主人公を襲ったさらなる衝撃的な出来事は、そのモンスターの側にいたのは、先ほど入学式で再会した少年だった。  小学校時代に転校していったと思っていたその少年は、実は「別の世界」に行き、魔王軍に入っていたのだ。その少年は過去のある出来事をきっかけに主人公に恨みを持っており、復讐したいという一心で己の魔力を磨いた。そしてついに中学校の入学式の日に再び主人公の前に現れ、ある「呪い」を主人公にかける。  自身にかけられた呪いを解くため、そして、かつての友人を魔王軍から取り戻すため、主人公も「別の世界」に旅立つ――。 鈴音はため息をついた。やはり、既視感を拭えない。どこかで聞いたことのあるストーリー展開。この手の作品は、もう誰かが書いている。何なら、漫画にもなっているし、映画にもゲームにもなっているのではないだろうか。そして、この手の作品の二番煎じはさらにたくさん世に生み出されている。自分が書いたとして、それはいったい何度目の焼き直しになるのだろう。ずっと温めていた物語だって、こんなものである。  開いたノートに文字を刻めないまま、鈴音はふと、先ほど買った文具を入れた袋に目を留めた。白い羽根が目に入る。鳥のそれというよりは、まるで天使の羽根のような、あのペン。これを使って書けば、もう読み飽きたストーリーも斬新で、目を見張るような壮大な物語になるということはないだろうか。 鈴音は羽根ペンを取り出した。ノートの1ページ目に早速ペンを走らせる。奇抜なペンではあるが、意外に書き心地は良い。いつも使っているペンと変わらず、ペン先が滑らかに紙の上を走る。鈴音は書いた。主人公の名前、設定。あの、魔王軍に入った少年の名前や、過去。主人公が行った「別の世界」の設定。物語にまつわる様々な設定を考えて、考えて、書きつけていく。  物語はとりあえず、二部構成にしてみよう。第一部は、主人公の呪いを解くことと、魔王軍から友人を取り戻すことを目的とした冒険。第二部からは、物語の趣を変えたい。もしこの作品が世に出たら、読者から「第一部のほうがよかった」とささやかれるような、少しダークな展開にしたい。それでもコアなファンは残るような、深い物語にしたい。では、物語のヒロインはどうするか。鈴音の頭の中に、候補は三人いる。その登場人物設定も、ノートに書き込んでいく。このノートはおそらく、そういった発想を書くノートになるだろう。  裏表5枚分ほど紙を消費したところで、鈴音は手を止めた。今発想したことを読み返してみても、やはりどこかで見たことのある物語をつなぎ合わせたような、そんな作品になりそうだと感じた。それでも鈴音は書き切りたいと思った。この羽根のペンを使っているからだろうか。だとしたら、自分は本当に単純だ。けれど鈴音は今、自分がずっと温めていた物語を自分で見てみたいと思った。まだ形などないのに、続きを見てみたい。自分が生み出したこの登場人物たちは、どう動くのだろう。それを知ってみたいと思ったのだ。  鈴音の長期休暇の大半は物語の執筆に費やされた。例の物語を書くのに忙しく、朱里にもあまり会わなかった。学校で行われているはずの講習にも行かなかった。正確には、最初の2日ほどは講習に出た。しかし、授業を受けている間も、鈴音の頭の中では登場人物たちがすでに動き出していたのだ。1コマ、2コマと授業が進んでいくにつれて、物語も進む。「彼」らが動く。鈴音はどうしてもそれを書き留めておきたくて、ノートや問題集の端っこに小さな字で彼らの動きや会話を書き連ねていった。そして、帰宅したらすぐにそれらをノートに書き写す。2日もこんなことが続いては、残りの講習に全て出ても一緒だろう。鈴音はすぐに、講習を休むことに決めた。朱里と遊んでいるときも、「彼ら」は止まっていてはくれなかった。しかし、目の前に友達がいるのにノートを広げるわけにもいかない。「これだけは!」と思った展開だけはトイレを装って席を外し、ノートに書き留めていた。  幸い朱里は、もともと鈴音の小説の読者だった。理解を得るのに時間を要さなかった。ときどき一緒にカラオケに行っては、朱里が歌っている間に鈴音はそれを聞きながら執筆をする、ということもした。カラオケのいいところは、多少うるさくても音楽が流れるところである。鈴音は何度も、今書いている場面の「イメージソング」を勝手に設定しては、それを朱里に歌ってもらった。 「ねえ、もし鈴音がデビューしたら、その話でCD作ろうよ」  朱里も乗り気で、マイク越しに楽しそうにそう言っていた。それはさすがに無理である。まず、こんなよくあるファンタジーでデビューできるとは思わない。仮にデビューできたとしても、「イメージソング」は全てすでに発表されている歌ばかりである。それを、レコード会社も何もかも無視して勝手にかき集めてCDを作れるわけがない。  そして何より、鈴音にはまだ少し自信がなかった。今はまだ、「彼ら」の動きに応えながらペンを進めることができているが、その「彼ら」は一体いつまで動いてくれているのだろうか。ある日突然、止まってしまうことだってありうる。これまでも鈴音はいくつかの物語を書いてきた。その中で、今のような状態になったことはない。登場人物がひとりでに動き出して、物語を紡いでくれるような今のこの状態。 「このペンの力なのかな」  長期休暇も半分以上が過ぎ、終業式の日から使い始めた羽根ペンも、ずいぶん鈴音の手になじんできていた。もちろん、このペンにそんな不思議な力が宿っているとは思えない。おそらく、気持ちの問題なのだろう。ただ、きっかけを与えてくれたものであることには変わりない。羽根ペンを使うという「形から入る」ことにより、鈴音の中の創作意欲が最大限に膨れ上がっているのだろう。おそらくそれが途切れるときが、「彼ら」の物語の終わりだ。 「新しいインクか、替えの芯を買っておこうかな」  鈴音はペン先を指でつまんで回してみた。インクはあとどれくらい残っているのだろう。  しかし、ペン先は固くて回らない。もう固定されているのだろうか。今度は、その反対側を探ってみる。ボールペンの芯を変えるときには、そこから補充していたような気がする。だが、いくら探ってみても、芯の取り換え口やインクの補充口のようなものは見当たらなかった。このペンは使い切りなのだろうか。それとも、芯やインクを補充する方法があるのだろうか。明日、またあの文房具店へ行ってみようか。  ふと、鈴音はまたペンを持ち直した。「彼ら」が動き始めた。もうすぐ第一部は終わりを迎える。「彼ら」の動きを追っているうちに、あの魔王軍に入った少年が、主人公の味方になったのだ。彼は最初、本当に主人公に恨みがあって魔王軍に入ったのだが、魔力を磨くうちに事情が変わってきた。魔王軍に身を置きながら、魔王を滅ぼそうと考えるようになったのだ。少年はぎりぎりまでその思惑は明かさず、主人公たちさえ欺いたまま、物語の終盤が近づいたころにようやく魔王に刃を向ける――。 「最初敵として出てきた少し陰りのある少年が、主人公の味方になる……か」  これもまたありふれた設定である。朱里に読ませたら「この人絶対あとで味方になると思ってたー」と言うかもしれない。この手の人物は後に人気が出て、敵として出てきたとしても味方に寝返ることが多い。ありがちな人物設定なのだ。それでも鈴音は、彼を生かしたかった。変な話かもしれないが、書いている自分がファンになりつつあるのだった。今まで物語を書いていて、こんな気持ちになったことがあっただろうか――。 「やっぱり、早く文具屋に行こう」  鈴音は羽根ペンを眺めながらそう決めた。このペンの「魔法」が解けたら、もう今のような気持ちで物語を書くことができないかもしれない。鈴音は今、それがとても惜しいような気がしていた。  鈴音の物語はあれから第一部の完結を迎えた。休む間もなく、すでに頭の中にあった第二部に着手したのが、午前二時ごろだっただろうか。さすがに眠くなり、物語に切りをつけた。ちょうどヒロインが登場したところである。  このヒロインは第二部で初登場となる。第一部はヒロインらしいヒロインを出さなかった。主人公の相手役となる女の子を出すには、少し早い気がしたのだ。第二部は少しダークな展開となる。このヒロインが物語のカギとなる予定だ。  鈴音は書き始めてすぐ、このヒロインを好きになっていた。この子なら、きっと第二部もうまくいく。だから絶対に、早くこの羽根ペンの予備を買わなければならない。羽根ペンがなくなった瞬間にこのヒロインも、これまでの物語も全部消えてしまうのではないか。本気でそう思ってしまうほど、今は調子に乗っていた。  鈴音は明かりを消し、ノートを引き出しにしまった。 「おやすみ、リコ」  鈴音は今作ったばかりのヒロインの名を呟いてみる。少し古風な、きれいな名前にしたかった。いかにもファンタジー小説という感じの響きではなくて、現代日本人である主人公の少年と釣り合うような名前。それでいて、「別の世界」にいても違和感のない名前。  ほどなく眠りについた鈴音は、夢を見た。出てきたのは知らない少女だった。最初に見えたのは、後ろ姿。赤いショートパンツからすらりと伸びた脚。高い位置で結んだ黒髪のポニーテールが印象的だった。少女が振り返る。凛とした瞳が、鈴音の目を射抜いた。ハッと気が付くと、ひらひらと空から羽根が舞い降りてくる。あの羽根ペンのような白い羽根。ひらひら、ひらひら、舞い降りてくる。  ふと先ほどあの少女がいたあたりを見ると、いなくなっていた。代わりに、また別の少女が立っている。肩までおろした黒髪に、白いワンピースを着た少女。また後ろ姿だから、顔は分からない。ねえ。鈴音は呼びかけてみた。あなたは誰なの?  少女が振り返る。そこで、鈴音は目を覚ました。机の上には、あの、夢で見たのと同じような白い羽根が横たわっていた。  夏休み中のショッピングモールは平日でも賑わしい。  鈴音はエスカレーターでいつもの文具店が入っている階へと向かう。ここにはノートやペンといった一般的な文具のほか、絵描きが好みそうな画材や、小学生や女子中高生が好みそうなキャラクターものの文具も充実していた。そのため、いつ行っても多くの人で賑わっている。それは、夏休み中の今日も例外ではなかった。  早速以前ペンを見つけた場所へ行ってみたが、現物は見つからなかった。鈴音はその周辺をよく探す。羽根ペンは目立つので、あれば見落とすはずがない。ふと、フロアを見まわしてみた。店員がいれば聞いてみようかと思ったのだ。しかし、あいにく適当な店員はいなかった。鈴音はいったん、店の外に出ることにした。さらにショッピングモールを出て、外のベンチに腰掛けた。そこでノートを開ける。  物語はヒロインが登場したところで終わっていた。続きを、今すぐに書きたくなった。鈴音は羽根ペンを取り出し、この後の展開を書きつけていく。ヒロインが、主人公が、動き出す。まるでずっとそうしたかったかのように、動き出す。  ショッピングモールの入口で接客をする店員の声。家族連れ、子どものはしゃぐ声。セミの鳴き声。様々な音が、遠のいていく。かすかに空の向こうから聞こえて来るかのように、遠くなる。暑い日だったと思う。けれど、暑さも他の感覚も忘れてしまったみたいに、鈴音は書くことに没頭していた。    どれだけの時間がたったのか、わからない。少し頭がくらくらする気がして、鈴音は我に返った。さすがに猛暑日の中、水分も摂らず、長時間屋外で小説を書き続けていたら、体の方がバテてきたようだ。鈴音は自販機を探し、ミネラルウォーターを一本購入した。冷たすぎる水が、鈴音を現実世界に引き戻していく。携帯を取り出して時刻を確認すると、もう昼過ぎだ。開店後すぐにあの文具店に入ったはずだから、随分長い時間小説を書くのに夢中になっていたことになる。 鈴音は、ミネラルウォーターのペットボトルをそのまま額に当てる。ひんやりとした容器の感触に心地よさを感じた。そして、もう一度ノートに目をやる。あの羽根のペンのインクの出が悪くなってきた。もうそろそろ、切れてしまうかもしれない。 太陽光のまぶしさを感じながら、鈴音はショッピングモールの入口に目をやった。行き交う人、人、人。 「リコは、これからどうなるんだろう」  鈴音はハッとした。  たった今自分が書いていた物語のヒロイン。主人公たちと出会い、仲間に加わった。このあとは、主人公たちとともに冒険の旅に出ることになる――。 「な、何ここ!!」  間近で、少女の声が聞こえた。鈴音は声の方を振り返る。 「一体ここはどこなんだ!魔王軍は……ハルトは、どうなったんだ!!」  まおうぐん。はると。  少女の言葉を、心の中で反復する。  その二つのワードは、鈴音とってなじみのあるものだった。 「あなた、どうして……」  思わず、ノートに目をやる。ベンチの上で、閉じられたままのノート。彼女は、それを見たわけではない。 「どうして私の小説のことを知っているの?」  鈴音はハッとした。少女の風貌。どこかで見たことがあった。このショッピングモールにそぐわない服装。赤いショートパンツから伸びた脚、高い位置で結んだ黒髪のポニーテール。鈴音は確かに、彼女を知っていた。この少女の名前は、きっと…… 「あなた、リコ?」  少女は鈴音をまっすぐに見た。大きくて、澄んだ瞳。この子はたぶん、私が生み出したヒロイン。 「あんた……あたしのこと知ってるのか?教えてくれ、ここはどこなんだ!魔王軍は、ハルトは一体どうなったんだ!!」  ハルトは、主人公の名前だ。悠久の「悠」に「人」で悠人。でも、「別の世界」ではカタカナで「ハルト」と呼ばれている。しかし、どうしてリコが、こっちに来てしまったのか。  鈴音は、ふとリコの腰に目をやった。そこには、短剣が装備されている。次いで、周囲を見回す。昼下がりのショッピングモールは賑わっている。まるでコスプレのような恰好をした少女がいても、特に誰も気にしないようではあるが…… 「と、とりあえず行こう!」  鈴音はノートをカバンにしまい、リコの腕をつかんだ。どうしてリコがこっちに来てしまったのかはわからないが、ここでは落ち着いて話もできない。とにかく今はここを離れ、自室にリコを連れて行くことに決めた。  どうしてこんなことになったのかは、わからない。しかし、今鈴音の目の前にいる少女は、この世界の人間ではなかった。 「あなた、本当にリコなのね」  リコはまっすぐに鈴音の目を捕らえる。まるで吸い込まれそうな、きれいな瞳。  そう、それが鈴音の描いたリコの特徴だった。そして…… 「さあ、説明しな。ここはどこで、あんたは誰なんだ?なんであたしのことを知ってる?」  リコは、男勝りな女の子だ。主人公のハルトたちが森の中でモンスターに襲われたときに、助けに来てくれた少女。軽い身のこなしに、ハルトたちにかけた「大丈夫か?」という言葉。ハルトはリコのことを、一瞬少年かと思った。リコという少女を、ハルトよりもかっこいいくらいの設定にしたいと、鈴音は考えていた。 「ここは……私たちの世界よ、リコ」  少し迷って、鈴音は言った。 「私たちの、世界?」  状況を理解できずにいるリコに、鈴音はノートの表紙を見せる。鈴音がずっと、書き連ねてきた物語。リコのいた世界が描かれたノートだ。 「私にも、よくわからないの。でもリコ。あなたはたぶん、この中から出てきたの」  リコは鈴音が差し出したノートを手に取る。ページを繰っていく。黙ったまま、第二部の最初から、リコ自身が出て来るところまで…… 「ここに書いてある世界は、何なんだ?」  リコがノートを指しながら言う。これまでの自分たちのことが書かれたその内容に、少なからず困惑しているのだろう。 「それ……私が書いたの」 「……え?」  リコはまた、その吸い込まれそうな澄んだ瞳で鈴音を見返してきた。  これまでの経緯を説明するのに、さほど時間はかからなかった。さすが、「別の世界」の人間だ。ある程度不思議なことには耐性があるのだろうか。そもそも、主人公のハルトとの出会い自体も奇妙なものだったのだ。 「じゃあ、あんたなら、あたしをこの中に戻せるのか?あたしは戻りたい。こんなところで遊んでる場合じゃないんだ。ハルトが、みんなが危ない」  鈴音がおそらく軽い熱中症になってペンを止めたのは、ハルトたちがリコを仲間に加えて、リコの故郷を旅立ったところだった。道中にモンスターが現れて、ハルトたちに襲いかかっていたところで、物語は止まっている。 「ごめん、リコ。わからないの」  そもそも、どうしてリコがこちら側に出てきたのかもわからないのだ。突然、目の前に現れて……。  鈴音はふと思い立つ。もしかしたら、続きを書けばいいのではないだろうか。  鈴音は早速ノートを開き、机の上にある適当なシャープペンを手にした。そして、物語の続きを書きつけていく。 「途中で、やめちゃったからかもしれないの。今、書くから。続きを書くから!」  鈴音は、動かした。ハルトを、リコを、仲間たちを。しかし、何かがおかしかった。先ほど、ショッピングモールの外で一気に書き付けたときのような勢いを感じない。  どうして?どうして?どうして?  鈴音は焦った。書けないのだ。ちらっと、カバンに目をやる。そこには、あの羽根ペンが落ちていた。 「もしかして、これじゃなきゃダメなの?」  鈴音はペンを拾い上げる。そして、ノートに書きつけたシャーペンの文字を消して、今度は羽根ペンで物語の続きを紡いでいった 「……うそ」  鈴音は、羽根ペンの先を眺めた。そして、慌ててそれを振ってみる。 「出ない。出ないよ……」  鈴音の持っていた羽根ペンのインクが、切れた――。  リコは部屋の隅で膝を抱えて座っていた。窓の外を眺めている。西に傾き始めた日差しがまぶしかった。もう夕刻になろうとしている。ショッピングモールはまだ営業しているが、あの文具店にはもう羽根ペンはなかった。そもそも、こんなペン、実は売っていなかったのではないだろうか。鈴音は、初めてこのペンを買ったときのことを思い返してみた。このペンをレジに持って行ったとき、不慣れな店員が手間取っていた。それは、あの店員が不慣れなのではなく、このペンがそもそも売り物ではなかったからではないか。 「とりあえず、あたしはあっちの世界に帰れないんだな」  リコの声は、自分に向けられたもののようには思えなかった。ずっと窓の外を見据えたままだったからだ。 「……ごめん」  鈴音はそうつぶやく。 「どうして、あなたがこっちに来ちゃったのかも、私にはわからないの」  肩を落とす鈴音を、リコが一瞥する。 「あんたを責める気はないよ。その様子じゃ、本当にわかんないんだろ?」  ただ、とリコは続ける。鈴音には、リコの次の言葉がわかる気がした。だって、自分はリコを生み出したのだから。 「ハルトたちが、無事だといいんだけどな」  リコが仲間に加わって、ハルトたちはリコの村を出た。その後の展開は、決まっていたはずだった。この後彼ら一行は、また一人新しい登場人物に出会う。その人物の登場をきっかけに、ハルトたちはいよいよまた魔王軍に迫っていく。そんな感じのことを考えていた、はずだった。しかし、先ほど鈴音は、書けなかった。自分がここまで物語を書き続けることができたのは、すべてあの羽根ペンの魔法だったというのだろうか。  つまり、自分にはやはり物語を自力で書く才能がなかった?  そう考えて、鈴音は首を横に振る。今はそんなことを考えて落ち込んでいる場合ではない。自分が作った架空の人物とはいえ、リコは今ここにいる。ここにいて、元の世界に戻れなくて困っているのだ。そうしてこんなことになったのかはわからないが、鈴音には作者としての責任がある。 「鈴音」  鈴音は名前を呼ばれてリコを見た。相変わらずまっすぐな瞳をしている。少し気の強そうな、意志の固そうな。鈴音とは、正反対の人物像。 「せっかくだから、教えてよ。どうしてハルトたちをあたしたちの世界に連れて来たんだ?」 「ああ、それはね……」  リコとしては、気になるところだろう。なぜか突然異世界から現れた少年たち。確か、主人公がまた別の世界に行くことになったのは…… 「地球……えっと、地球っていうのが私たちの世界なんだけど。ハルトたちもそこにいたの。それが突然リコたちのいる世界に行くことになったのは……」  確か、ハルトたちの住む世界に魔王軍が現れたからだ。第一部で倒したはずの魔王がまだ向こうの世界で生きている。ハルトたちは、自分たちの住む世界を取り戻すために、また戦うことを決意した。そういう流れだった、はずだ。しかし…… 「たぶん、あなたを……リコを救うためだと思う」 「……は?」  鈴音は、気が付けばそう答えていた。 「あたしを救う?それ、どういうことだ?」  そう聞かれても、鈴音は上手く説明できない。おそらく鈴音自身、最初からそんなことは考えていなかったから。そして、リコがどうして救われなければならないのかも、考えていなかったから。 「ごめんなさい、リコ。まだ私にもわからないの」  そう答えるしかなかった。非常に無責任な原作者だと思う。  しかし、リコは鈴音を責めてくる様子もない。 「なんか、あんたさっきから不思議だよね。ハルトやあたしを作ったのは紛れもなくあんたなのに、あたしたちのこと、わかっているようでわかっていないんだな」  わかっているようで、わかっていない。その通りだ。そうなってしまったのは、あの物語自体、実は自分が作ったものではないからではないだろうか。羽根ペンの力で書いたからではないだろうか。 「ねえ、あんた今、書いてないじゃん。その間ってハルトたちどうなってんのかな。だって、ハルトたちからしたら、今って急にあたしが消えた状態なわけだろ?目の前に魔王軍はいるし、倒したとしても前に進むわけにもいかないし、ってか、あんたが書かないんじゃきっと先に進めないし、もうわけわかんないだろうな」  この状況に慣れてきたのか、リコは少しずつ自分が「フィクション」だということを理解し始めているように思えた。彼女の言うとおりである。鈴音が書かなければ、物語は進まない。ハルトたちはまだ魔王軍の前に立ち尽くしているだろうし、旅の続きを始めることもないだろう。おそらく、あそこで時は止まったままだ。なぜか今、リコの時間だけが流れている。そこだけが、説明がつかない。 「戻れる方法がわかったら、すぐに戻すから」  鈴音はそう言ってみたが、当てなどない。第一、この物語はまだ誰にも見せていない。このノートの中と鈴音の頭の中にしかない物語だ。その物語の中から急に飛び出してきた登場人物がいて、それを元の世界に戻すにはどうすればいいか。そんなことの答えを知っている者が、いったいどこにいるだろう。  目の前のリコは、おそらく期待はせずにうなずいた。  また夢を見ていた。あの羽根ペンと同じような白い羽根が舞っている。たくさんの羽根。  鈴音は手を伸ばして、その羽根をつかんだ。けれど、それはただ白い羽根で、ペン先は見当たらない。リコを物語の中に帰してやりたいのに、続きが書けない。すがるように、舞い降りてくる羽根を見上げた鈴音の目に、一人の少女の姿が飛び込んできた。  向こうを向いているので、顔はわからない。ただ、一度どこかで見たことがある。あれも、夢の中だった気がする。肩までおろした黒髪、白いワンピースのスカートをなびかせて、その少女は立っていた。  ふと、夢の中で鈴音は思い当たった。この少女は、もしかしたら…… 「ねえ、あなた……リコなの?」  鈴音は思い当たって、そう呼びかけた。しかし、振り返ったその顔は……  違う子だ。  鈴音はすぐにそう思った。そこで、目を覚ました。部屋の隅に目をやると、夕方と同じように、リコが座ったまま眠っていた。 「ベッド、貸すって言ったのに」  鈴音が言うと、リコは首を横に振る。 「鈴音のベッドなんだから、鈴音が使えばいいだろ?あたし、家にいないときはだいたい座ったまま寝てるから」  リコは何でもないことのように言ってのける。ということは、村を出たリコはこれからずっと座って眠ることにならないか。鈴音は物語の中にそういった描写は入れなかったが、リコらしいと思った。なんだかおかしくて、鈴音はくすっと笑ってしまう。 「何がおかしいのさ」  強気で男勝りな女の子。リコは鈴音にとって、憧れとも言ってよい存在だった。鈴音はリコに、自分にはないものを全て与えた。  だからだろうか。昨夜見たあの夢に出てきた少女。  鈴音は一瞬、リコかと思った。けれど、振り返ったその少女の顔を見てすぐに思った。  この子は、リコじゃない。違う子だ。ただ、問題はそこじゃない。  その子はリコじゃなかったけれど、顔は、リコだったのだ。鈴音にとってあの夢は二度目である。ただ、知らない女の子が出てきたという夢では片付かない。リコじゃないけれど、リコの顔をした少女が出てきた夢。それが何を意味するのか、今の鈴音には分からなかった。 「あのペンがまた使えるようになれば、わかるのかな」  鈴音は、ペン立てに差した羽根ペンを見る。もう、ほとんどインクは出ない。物語を書くと語はできない。鈴音が書かない限り、リコはきっとこのまま物語の世界へ戻れない。 「リコ、戻りたい?」  鈴音はそう問いかける。愚問だったかもしれない。しかしリコは怒らなかった。 「そりゃあね、ハルトたちも心配だし。あたしは、この世界では生きていくことができないから」  リコは窓の外を眺める。彼女の前に広がるのはきっと、彼女の知らない世界。 「でも、鈴音が書けないんなら仕方ないだろ」  リコは机を振り返り、その上のノートを指す。 「あんたを急かしても仕方ないし、あたしは待つよ」  リコの瞳がまっすぐに鈴音を捕らえた。いつか鈴音が続きを書けると信じているみたいに。その瞳が、鈴音には痛い。どうして自分は書けなくなったのだろう。あんなにたくさんのアイディアが浮かんできて、何時間でも書くことに没頭できたのに。 「そんな顔しないでよ、鈴音。ただね、あたしは……」  リコがノートを手に取り、鈴音に差し出す。 「そんなよくわかんない魔法の力を借りなくても、鈴音に書いてほしいと思ってるよ」  リコが笑う。凛々しくも、少し寂しそうな笑顔だ。きっと、自分が帰りたいからだというだけではない。リコは、鈴音のためにそう言っている。 この子はどうして、こんな顔ができるのだろう。自分はこの子を、どう動かしたいのだろう。ハルトと、仲間たちと、魔王軍と、このリコという少女を、どのようにして生かしていきたいのだろう。 ……魔王軍と? 鈴音は差し出されたノートをそっと受け取った。 魔王軍と――。 自分で思ったことに、自分で引っかかる。どうして自分は、「魔王軍」を生かすことを考えたのだろう。 鈴音はリコから渡されたノートの表紙に目を落とした。 「書くのか?」 リコが出てきて、二度目の夜。鈴音は机に向かっていた。手に持っているのは、普通のペンである。あの羽根ペンは、ペン立てに差したままだ。 鈴音は、こくりとうなずいた。 「そっか。書けるんだな」  リコは静かに言った。物語の世界に帰れるかもしれない。けれど、大喜びしているようには見えなかった。 「書けないと、思ってる?」  鈴音はペンを動かす手は止めずに、リコに尋ねる。リコは、首を横に振った。 「鈴音があの魔法に頼らずに書こうとしてるんだから、きっと書けるんだろ」  最初のこの部屋へ来たときと同じ、部屋の隅に座って、窓の外を眺めている。  もうすっかり夜も更けた。 「……ありがとう」  気が付くと、鈴音は言っていた。 「なんで礼を言うのさ」 「ねえ。リコ」  鈴音はリコの質問には答えずに、ノートから目を離した。そして、リコを見る。 「この中に戻ったら、がんばって」  再び、鈴音はノートにペンを走らせる。物語を、紡ぐ。 「あたしはあたしのできることをやるだけだよ」  リコ。がんばって。リコ。  私とは正反対の、物語のヒロイン。  そして、いつかこの子は……消える――。  鈴音は最後にもう一度、依然として窓を眺めながら座るリコを見た。 鈴音は窓から差し込む陽の光のまぶしさに目を覚ました。  机に突っ伏したまま、いつの間にか寝ていたらしい。目の前のノートに目を落とすと、ノートの上に普通のペンが転がっていた。昨日書き始めたところから、眠ってしまったところまで、ちゃんと物語が続いていた。羽根ペンの力は、もう必要ない。 「不思議なペンだったな……ねえ、リコ」  鈴音はハッとした。振り返った部屋の隅。確かに昨日、そこに座っていたリコが、いなくなっていた。次いで、慌ててノートに目をやる。 「……リコは、帰れたの?」  自分が書いた文字を指でなぞる。そこには、確かにいた。主人公たちと旅を続けるあの少女の姿。勇ましく戦い、冒険の途中で主人公に軽口をたたくヒロインの姿。 「最後にもう一度、ゆっくり話したかったね」  鈴音はまた、文字をなぞった。書けないこと、リコを帰してやれないこと。そんなことで頭がいっぱいで、自分が作ったヒロインとゆっくり話をする余裕もなかったのだ。  もう二度と、鈴音の前には姿を現さないかもしれない。物語の中にだけ生きる人物。生かすのは、自分だ。  誰かに見てほしいからではない。これを世の中に出したいからでもない。  鈴音はまた、書き始めた。主人公を、ヒロインを、仲間たちを、魔王軍を。動かして、動かして、生かしていく。彼らの行く末を最も楽しみにしているのは、他の誰でもない、鈴音自身だった。 「リコ。書くよ、私」  書いて、書いて、書いて、物語を紡いでいく。 「だから、がんばって」  私はきっとこの子に、少し残酷かもしれない運命を与えようと、している――。
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