56・暗い台所

1/1
前へ
/92ページ
次へ

56・暗い台所

 確かに拭いたはずなのに、キッチンのシンク周りが濡れていることがある。  何度拭いても必ず水滴が落ちているので桂さんに相談してみると、彼はキッチンを見て苦い顔をした。 「なにかわかったの?」  僕が尋ねれば曖昧な返事をして、桂さんはハンカチを取り出し何故か空中を撫でる。それはまるで見えない誰かの涙を拭ってやっているようで、僕は戸惑ってしまった。 「沢山泣いたんだね」  思わず息を呑んでしまうほど優しい声音で、桂さんは誰かに話しかける。 「一人ぼっちで、家族に見付からないように隠れて、ひっそりと泣いていたんだね。辛かったね。だがもう、こんなもの握る必要はないんだよ」  そう囁きながら桂さんが引き抜いたものを見て、僕は危うく悲鳴をあげそうになる。  なにもないところから突然現れたのは、雫で濡れた見慣れない包丁だったのだ。  雫、恐らく涙で濡れた包丁を丁寧にタオルに包み込んで、もう大丈夫だと桂さんは微笑みかけてくる。  その顔は悲しげで、僕は怖さも忘れて黙り込んでしまった。  このシェアハウスが建つ前、一軒家が建てられていたのだと聞いたのはそれからすぐのこと。  奥さんが自殺したのだと知って、僕は涙で濡れていた包丁に想いを馳せてしまうのだった。
/92ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加