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56・暗い台所
確かに拭いたはずなのに、キッチンのシンク周りが濡れていることがある。
何度拭いても必ず水滴が落ちているので桂さんに相談してみると、彼はキッチンを見て苦い顔をした。
「なにかわかったの?」
僕が尋ねれば曖昧な返事をして、桂さんはハンカチを取り出し何故か空中を撫でる。それはまるで見えない誰かの涙を拭ってやっているようで、僕は戸惑ってしまった。
「沢山泣いたんだね」
思わず息を呑んでしまうほど優しい声音で、桂さんは誰かに話しかける。
「一人ぼっちで、家族に見付からないように隠れて、ひっそりと泣いていたんだね。辛かったね。だがもう、こんなもの握る必要はないんだよ」
そう囁きながら桂さんが引き抜いたものを見て、僕は危うく悲鳴をあげそうになる。
なにもないところから突然現れたのは、雫で濡れた見慣れない包丁だったのだ。
雫、恐らく涙で濡れた包丁を丁寧にタオルに包み込んで、もう大丈夫だと桂さんは微笑みかけてくる。
その顔は悲しげで、僕は怖さも忘れて黙り込んでしまった。
このシェアハウスが建つ前、一軒家が建てられていたのだと聞いたのはそれからすぐのこと。
奥さんが自殺したのだと知って、僕は涙で濡れていた包丁に想いを馳せてしまうのだった。
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