ぼくの神さま

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 まだ小学校にも上がらない年のころの少年が広い庭を探検していた。少年の名は海青奏。庭は伯母のものだ。伯母は少し変わっていて一人暮らしなのに庭が異様に広い小さな一軒家に住んでいる。  その庭は高い塀でぐるりと囲まれていて、外から見ると少し異様だが、中に入ればどこか不思議できれいな庭だった。庭の中央には一年中白い花をたくさん咲かせている大きな木がある。古木というわけではないようだが、枝ぶりがいい。咲いている花は桜によく似ているが大きく、桜ではないらしい。その木の袂には湧水でできた冷たい池があり、小さな橋が架かっている。低木や花できれいな迷路が作られていて、いつ来ても小鳥たちが遊んでいる。  奏は祖母に連れられて月に一回から二回、伯母の家に遊びに来ている。一人暮らしの伯母が心配というのは建前で奏の母である嫁の愚痴を言いに来ていることは幼い奏にもわかっていた。だから、すぐに庭に探検に出る。  伯母も聞かせたくないと思っているのか、いつも庭で食べておいでとお菓子とジュースの入った肩掛けの包みを持たせてくれる。奏はそんな伯母が大好きだった。大きくなったらお嫁さんにしてあげると言ったら笑われたが奏は大真面目だった。  奏は低木の迷路を抜け、橋を渡り、木の根元についた。奏はいつもそこでお菓子を食べる。木には人が寄りかかって眠っているようなこぶがあり、奏はそのこぶが好きだった。たまにままごとの相手もしてもらう。だが、その日は様子が違った。こぶがなく、こぶと同じ場所にそっくり同じ姿勢のこの世のものとは思えないほど美しい女性が眠っていた。きらきら輝く白髪は木の幹と同化していて、足は木の根のようだ。青い銘仙の着物を着ているが、その姿はとても人とは思えない。  奏が見惚れているとその女性がゆっくりと目を開けた。 「早上好、綾音」  女性は寝ぼけているのか奏を見てぽやりと笑った。花が咲いたようだと奏は思った。だが、綾音は伯母の名だ。面差しが似ているとたまに言われるが、見間違えられるはずがない。何も言えない奏に女性は小首をかしげ不思議そうにしていたが、突然怯えたように目を見開き、逃げ出した。 「綾音! 綾音、助けて!」  伯母に助けを求めながら必死で走っているように見えるが、よたよたしていてあまり進んでいない。足が悪いようだ。追いかけてはいけない気がして、呆然と立ち尽くしていると、伯母が出てきた。 「綾音! 知らない人がいます!」  何度もここに来ているのに知らない人呼ばわりは心外だったが、会うのは初めてだから仕方ないのかもしれない。 「落ち着いて、大丈夫よ、リェンホア」  低木の迷路を一足飛びに越えて、伯母はその女性を抱きとめた。 「今日は母と甥が来るから姿を見せないように言わなかった?」  女性は泣きそうな顔をしてうつむく。 「言われました……でも、天気がいいから眠ってしまって、気付いたら……」 「そう、気が緩んでたのね。そんなに私の庭の居心地がいいならうれしいわ」  伯母が頭をなでると女性はくすぐったそうに笑って、陰に隠れてしまった。 「リェンホア、この子が甥の奏。いつもあなたのお花がきれいだってほめているのよ」  花の色がわずかに鮮やかになった。 「奏、この人は木の神様なの。人が怖いからいつも隠れていてね、次からは見つけちゃっても見ないふりしてあげてくれる?」  突然神様だと言われても信じられない気持ちになったが、リェンホアの長い長い純白の髪は木に繋がったままだ。それにその目は木の葉と同じ色で、髪は花の色と同じだ。大好きな伯母が嘘をつくはずもない。 「わかった。見つけちゃってごめんなさい」 「驚いてしまってごめんなさい……」  伯母の後ろから細い白い手が出てきて花を一輪差し出した。 「蜜がおいしいからお詫びに飲んでほしいんですって」  伯母に言われて奏は花の蜜を吸う。今まで吸ったどんな花の蜜よりも甘くておいしい。神様のくれた花だから特別なのだろうか。 「とってもおいしいよ。ありがとう、神さま」  花の色がまた一段と鮮やかになった。喜んでいるのだろうか。 「あら、リェンホア、久しぶりね」  祖母の声にリェンホアはびくりと飛び上がった。祖母もこの神様と旧知らしいと知って奏は訳がわからなくなった。神様はそんなに身近にいるものなのだろうか。 「おく、さま……」  彼女は人が怖いというのは本当のことらしい。身体ががくがくと震え、顔面蒼白になっている。伯母はすぐに神様を覆い隠すように抱きしめた。 「お母様、リェンホアは私以外と話せないの。奏に驚いてこっちに来てしまっただけだから木に戻してくるわ」  伯母は今にも倒れてしまいそうな神様をなだめながら木の根元に連れて行ってしまった。もう少し話したいと思ったが、無理なことは真っ青な顔としおれてしまった花を見ればわかる。  伯母が口づけをしたように見えた直後、そこには木のこぶがあるだけで神様はいなかった。伯母は木のこぶをやさしく撫でて戻ってきた。 「あれでも、よくなったのよ……」  伯母はひどく悲しそうに呟いた。二人の話を聞く限り、神様はかつて人として海青の屋敷に暮らしていたらしい。何か事情があって木に戻ってしまい、離れられなくなったということのようだ。伯母の庭はあの神様のためのものらしい。  奏はあの美しい木の神様と話がしたくなった。今日は無理でもいずれまた機会があるかもしれない。  翌月、すぐに機会が訪れた。祖母について伯母の家に行き、庭に出ようとしたが、家の中から見ても木の周りの様子が変わっているのがわかった。木の周囲にちょうどこぶが隠れる程度の高さの簡易な柵が設置されていた。簡単に外せるようになっているようだが、あまりにも不自然だ。 「伯母さま、どうしてあんなところに柵を立てたの?」  伯母は困ったように笑う。 「リェンホア……木の神様がね、怖がっちゃって人が来るときは見えないようにしてほしいって言うの。だから、できるだけ近づかないでそっとしておいてくれる?」 「そうなんだ。わかった……」  残念に思ったが、あの怯えようを見たら仕方がない。 「花の蜜は好きなだけ飲んでいいって言ってたわ。あそこの枝が低いでしょう? 特別美味しいお花を咲かせてあるそうよ」 「わかった!」  奏は伯母が示した枝のところまで行き、花を取る。甘やかな香りに誘われて蜜を吸うと、とろりとしていてまろやかな味が口いっぱいに広がった。前回もらった蜜もおいしかったが、それとはまた別だ。奏は満足するまで花の蜜を吸って、木の袂に行く。 「神さま、蜜、とってもおいしかったよ。ありがとう。今日は神さまとお話ししたかったんだけど、ダメなんだよね。怖くなくなったらお話ししてね。これはお礼だよ。またね」  奏はそこに緑色のビー玉を置いて家に戻る。こうして通えばいつか話してくれる。そんな気がした。    祖母にねだっては伯母の家に行き、花の蜜を吸ってお礼にビー玉を置いた。伯母が言うには神様はどんな色のビー玉が置かれるのか楽しみにするようにはなったが、話そうという気にはなってくれないらしい。  通い始めて一年が経つ日、奏は一大決心をした。祖父がくれた一等きれいなビー玉を神様にあげることにしたのだ。一等きれいで、舶来ものだから、二度と手に入らない大切なものだが、神様にあげるなら惜しくないと思った。 「神さま、蜜をありがとう。これ、ぼくのとっときなんだ」  好奇心に負けたのか、奏の粘りに折れたのか、木のこぶが神様に変わったのがかすかに見えた。 「あなたが持って来てくれるビー玉はいつもきれいで楽しいです。とっときは大事にしてください」  奏は頭を振る。 「神さまがお話ししてくれたから、それはあげるの。神さまの声はとってもきれいだね」  花がわずかに赤くなった。神様は恥ずかしがり屋らしい。 「少しだけ、話を聞いてくれますか? 奏」 「うん!」  神様が話す気になってくれたことがうれしくてたまらない。 「私はとてもひどい目にあってつらくて、悲しくて、木に戻ってしまいました。本当は人が好きで、愛したいのに、今は隠れてばかりです。あなたのように純粋に慕ってくれる魂であるなら抱きしめて愛したいと思うのに、身体が恐怖で震えて動かなくなってしまいます。だから、あなたが望むように柵を取り払ってお話しすることはできません。それでもいいなら、また遊びに来てください」  奏は涙があふれるのが止められなかった。 「神さま、かわいそう……ぼくがうんとうんと強かったら守ってあげられたのに……」 「優しい子、どうか泣かないでください。私も悲しくなってしまいます」  儚げな声が震えていた。奏は慌てて涙をぬぐう。 「もう泣いてないよ。大丈夫。もう神さまが悲しい思いをしないようにぼくが守ってあげるからね!」 「好孩子……いい子……疲れてしまいました。さようなら……」  声はか細く、今にも消えそうだった。勇気を振り絞って話をしてくれたのだろう。 「またね!」  奏が急いで手を振ると柵の隙間から出てきた白い手が揺れた。細い、簡単に折れてしまいそうな手だった。  少しずつ、少しずつ、話してくれる時間が増え、たわいもない話もできるようになった。神様は池で行水するのが好きなこと、伯母が大好きでそばにいたいから目覚めたこと、外国から海を渡ってきたこと。神様のことを知るたび、神様のことが好きになった。  そんなある日、柵がついになくなった。その代わり、半分埋められたビー玉で境界線が引かれた。その線を越えないという約束さえ守れば神様は優しくにこにこ笑って話を聞いてくれる。奏は遊びに行くたび、境界線に新しいビー玉を埋めた。神様の木の周りがビー玉できらきらキラキラ輝いて神様がもっときれいに見えるような気がする。  神様はぽやんとしていて、ずれているところがある。しっかり者の伯母と比べてしまうせいか、神様だからなのかはわからない。そんな神様がたまに境界線を越えることがある。越えられるのは怖いが、自分から越えるのは怖くないらしい。  ある時、頭を撫でてくれた手が優しくて、やわらかくて、奏は泣きたくなった。これほど優しい手を、あたたかな眼差しを奏はほかに知らない。  これほど優しくあたたかい神様が人間を怖がるようになるなんて、よほどのことがあったに違いない。伯母や祖母に問うても言葉を濁されるばかりでわからず、神様に直接聞くこともできない。詮索することが正しいとも思えない。  奏はただ、優しい悲しい神様がこれ以上傷つくことがないように願う。  その日、奏は急に神様に会いたくなってこっそり屋敷を抜け出して伯母の家を訪ねた。一人しかいないお手伝いさんが中に通してくれた。伯母は庭にいるのだという。きっと神様といるのだと思って木に近づくと伯母がそこにいた。伯母は神様と寄り添い、くすくすと笑いながら言葉を交わしていた。神様は奏が一度も見たことのない顔で笑っていた。幸せそうで、嬉しそうで、少し恥ずかしそうなその顔は、今まで見たどんな顔より美しくて、神様が本当に愛しているのは伯母なのだと思い知った。  大好きな伯母と神様はお似合いだった。口づけを交わす姿も幸せそうで、眩しくて、奏は声も出せずに逃げ出した。  もともと二人が特別な関係だとわかっていたのに苦しくて苦しくてたまらない。自分の部屋に逃げ込んでわんわん泣いた。奏は神様が伯母よりもずっと好きだった。儚い悲しい神様に恋をしていた。けれど、神様の心はとっくの昔から伯母のものだった。  気の済むまで泣いて、神様にあげようとポケットに入れていたビー玉をかつて神様の木があったと教えてもらった場所に埋める。そこは以前、伯母が住んでいた部屋の中庭だと気付いて奏はあふれそうになった涙をぬぐう。  奏の淡く儚い思いはビー玉と一緒に土の下。神様はいつか気付くのだろうか。境界線の代わりに半分埋めたビー玉に込められた本当の思いに。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加