綿毛

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綿毛

「たんぽぽの綿毛には近づいちゃいけないよ。綿毛が耳に入ったら、耳が聞こえなくなっちゃうから」  小さい頃、お母さんはわたしにそう言った。そのとき幼稚園児だったわたしは、たんぽぽの綿毛がこわくなって、見かけるたびに離れて歩いた。  だけど、今はもう。  ため息ひとつついて、道ばたで見つけたたんぽぽの茎を折る。  まん丸の綿毛に口を近づけて、ふうっと息を吹きかけた。たちまち綿毛が飛んでいく。風に乗って、どこか遠くへ。  その光景を見ながら、わたしはぼんやりと思った。あの綿毛が、わたしの耳に入ってくればいいのに。  お母さんの話が本当なら耳が聞こえなくなってしまうけれど、それでもいいような気がした。  だって、聞きたくない音が多すぎる。  誰かの悪口。誰かが怒る声。何かがぶつかる音。何かが壊れる音。学校の中はいつも聞きたくない音であふれてる。  聞きたくない。  わたしの耳が聞こえなくなったらいい。  そうしたら、今より少しは明るい気持ちで、学校に行けるかもしれない。  もう一本、さらにもう一本と、わたしはたんぽぽを折って綿毛をとばした。  だけど一つも私の耳には入らない。綿毛はしばらく空をとんで、少し離れた地面に落ちるだけ。  なんだかむなしくなってきて、わたしは茎を放り投げた。  そんなものだって、わかってる。  だからわたしは黙って帰り道を歩き出した。
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