10

1/1
20人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

10

 俺はずっとおまえを見てきた。それなのに。章吾の声が揺れている。息が上がっていた。  インターホンが鳴る。俺を呼ぶのだ。俺はひたすらに章吾の手から逃れることだけを考えていた。逃れるために息が上がった。小学生の頃は野球と並行して柔道をやっていたという男、その激昂した身体を突き飛ばすには全身の筋力が必要だった。今や筋力不足であった。野球と縁のなくなった身体はもはや何の役にも立たない。  なんで俺じゃないんだよ。手首を掴まれ、顎を掴まれ、その唇が幾度も幾度も迫ってきて、俺は無我夢中でもがく。  いつしかインターホンの音はやんでいた。静寂が広がっていた。ふと、声が静かに降ってきた。それがおまえの返事か、と。涙とともに。それは俺の頬の上で散った。  章吾の身体をすり抜ける。ごめん、ごめんな、ごめんな篤志。我を取り戻した章吾の声と手が縋りついてくる。  忘れることのない、麦の匂い。俺は確かに欲していた。だからそれを求めて玄関に向かった。郵便受けに何か入っていた。宅配便の不在票だ、俺は自分を笑った。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!