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「ワタクシ、自動車に乗るのはこれで2度目なのです」
櫻子さんが僕に話しかけたが、僕は「へぇ~」とちょっとうわずった声で返事をした。
だって! 櫻子さんの身体が、僕の左側にくっついて……。
あ、いかん、櫻子さんの体温を感じると、僕の一部の熱も上がってきてしまう。
冷静に、冷静に……。
「以前、お父様のお知り合いの方に乗せていただいたときは、ガタガタと、ものすごい音でお話もままならなかったのですけれど、この自動車は少し静かですのね」
櫻子さんは楽し気にキョロキョロとあたりを見ていた。
シルヴァーゴーストという名前のこの車は、幽霊のように静かに走るためその名がついたという。
今日はよく晴れていて、車のひさしをひろげなくてもよさそうだ。
陽の光が櫻子さんの輝くような肌を、更に白く輝かせていた。
「やはり、人力車とは違って早く進みますのね。ふふふ、楽しい~」
櫻子さんの髪がサラサラとなびいて、僕の肩にも触れていた。
いかん、どうしても櫻子さんが可愛くて、意識がそっちに集中してしまう。
僕は、僕のある部分が元気になってしまわないように、父が自慢していた車の説明を思い出しながら、なるべく櫻子さんを見ないように視線を外して早口に話した。
櫻子さんは、僕の話をじっと聞いていて、にっこりと微笑んだ。
「藤孝様は、いろいろとお詳しいのですね」
あ、ダメだ……。
元気になってしまう……。
こちらを向いている櫻子さんの顔にサラリとした髪がかかり、僕は思わず櫻子さんの頬に触れて、その髪を手で梳いた。
滑らかに黒髪が僕の指を通っていく。
柔らかく、絹のような肌触りの櫻子さんの頬は、僕の手にすっぽりとおさまって、普段は髪で隠れている耳にも触れた。
もっと、櫻子さんに触りたい。もっと、もっと……。
「藤孝様? 往来の方がご覧になっておりますわ……」
櫻子さんが顔を赤くして言い、僕はハッと気がついた。
「うわぁ! す、すみません」
危ない。このまま暴走してしまうところだった。
いつもより成長した「ボク」を、ひざ掛けが隠してくれていて、心底よかったと思った。
少し気まずいような間があり、僕はなんて取り繕おうかと思案していた。
櫻子さんは、顔を赤くしたままだが気まずくならないように、努めて明るくに僕に話しかけた。
「ワタクシ、藤孝様のことをほとんど何も存じませんの。何かお好きなことやご趣味はございまして?」
うーん……趣味がないのが僕の悩みというか、普段、勉強するのが趣味みたいなもんだろうか。
「趣味というか、勉強ばかりで特にはないのですが……最近は非ユークリッド幾何学の問題を解いていると、常識だと思っていることにとらわれてはいけないことや、地球規模の大きな考えに発展してきて面白いなと思います」
僕の答えに明らかに「わからない」という顔をした櫻子さんが、苦笑いした。
「本当に秀才でいらっしゃるのですね。ワタクシにはよくわかりませんが」
僕はせっかく櫻子さんが会話をつなげてくれたのに、自分の面白みのない返答を悔いながら、櫻子さんにも質問した。
「櫻子さんは好きなことは何かあるんですか?」
「ワタクシは体を動かすのが好きですの。女学校のときにはバレーボールをよくお友達とやっておりましたわ。
女学校を辞めてからは体を動かす機会がございませんから、自邸の庭やお社までの石段を駆けまわっております。
ふふ、すぐにキヌに『はしたない』と叱られてしまうのですけれど」
どおりでお見合いの日に、櫻子さんが走るのが早かったはずだ。
僕は一人で納得し、先ほどよりも落ち着いて話せていていることに気づいた。
もっといろいろ櫻子さんのことを知りたい。
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