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ぶつかった女の子
厠(※トイレ)を出た僕は、オカメ女中に案内されたように、廊下を戻り始めた。
どこからかわからないが、ザワザワと人の声がする。
女中などの声だろうか?
なんだか人の声が騒がしいお屋敷だなと思った。
そして、東側の玄関に近い廊下に差しかかった時だった。
後ろ向きに腰をかがめながら下がってくる、髪の長い女の子とぶつかった。
華奢で少し小柄なその女の子は、鮮やかな浅葱色地に、薄桃色の花模様があしらわれた総絞りの豪華な着物を身にまとっていた。
金糸銀糸を施した錦織の帯を、華やかな立て矢結びに締めて、艶やかな髪には、ベルベッドでできた深い赤色の大きなリボンを結んでいる。
「きゃあ」
女の子は小さな悲鳴をあげ、クセのない黒髪が、サラサラと音を立てるようになびいて、前に倒れこんでしまった。
「あっ! すまない!」
とっさに僕は右手を差し出すと、女の子はこちらを振り返って、僕を仰ぎ見た。
大きな黒目がちの瞳は潤んだようにキラキラと輝き、頬はぬけるように白く、口元には赤いバラが咲いたようなふっくらとした唇。
その美しい顔を見た途端、僕は息をするのも忘れてしまった。
よくできた人形よりも整った顔を見て、目が離せない。
学ラン姿の僕を見たその女の子は、サッと青ざめた。
なぜか、草履の底同士を合わせて両手に抱えている。
その草履をギュッと握りしめ直したかと思ったら、僕の横をすり抜け、長い廊下を走りだした。
この豪華な着物と、この美麗な姿、この子がきっと櫻子様だ!
僕は、長い髪をなびかせて走り出した櫻子様を見て、青木が女について教えてくれたことを瞬時に思い出した。
『いいか、一井。
女が「ダメよ」と言うのはたいていオーケィ(OK)の意味だ。
逃げる女は、一旦追いかけてつかまえると喜ぶんだ』
これは追いかけるべき時なのか? 青木センセイ!
心の問いに、心の中で青木が答え、僕は櫻子様を追って廊下を走り出した。
厠の方向へ戻り、厠から続く縁側で、櫻子様が降りて草履をはいているのが見えた。
僕も急いで向かうが、櫻子様は即座に走り出してしまった。
沓脱石(※縁側の外にある踏み台の石)の横に、下駄が揃えてあるのを拝借し、僕も櫻子様が向かった方向へ走り出した。
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