逃げる櫻子様、追いかける僕

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逃げる櫻子様、追いかける僕

 実は僕、走るのは得意ではない。  走る以外にも運動全般が苦手である。    学校では、勉学だけでなく体操(※体育)の時間がある。  馬術や武道もあり、落第しないようにいつも必死だ。  普段は、家の運転手が自動車でどこでも送り迎えをしてくれるし、体操の時間の他はあまり運動をしないため、走るとすぐに息が苦しくなってしまう。  その割に僕は背丈が高く、()せ型であるため、運動が得意そうに見えるらしく、野球やフットボール(※サッカー)のお誘いを断るのにいつも苦慮(くりょ)している。  だが、今は走る! 櫻子様のために!  追えば女は喜ぶと、モテ(おとこ)の青木が言っていたから間違いはないはずだ。 (これは、青木に好意を持っている女を、のらりくらりと色男の青木が追いかけてみせるので、「女が喜ぶ」ということを、僕は後になって知る)  大炊御門(おおいのみかど)邸の庭園は広く、僕が(えん)から降りた先には、延々と飛び石が敷いてあり、その周りに植栽が茂っていた。  僕は下駄をカランコロンと鳴らしながら、ゼイゼイと櫻子様を追いかける。  櫻子様は足が速く、振袖(ふりそで)でどんどん走って行ってしまう。  その割に、後ろからも(たもと)が揺れるのが見えるばかりで、(すそ)が広がっておらず、歩幅を小さく走っておられるようだった。    走るお姿も上品だ。  しかし、着物姿で走り慣れておられるのだろうか?    ちょっとくらい、乱れた(すそ)の中を見てみたいっ!  先の方で、急坂(きゅうはん)の石段を(のぼ)りはじめた櫻子様の後ろ姿が見えた。  櫻子様が脚を交互に上げて、石段を上るたびに、着物の(すそ)がずり上がって、真っ白で細い足首がチラチラと見える。  あぁっ、まさか櫻子様のおみ足を本当に拝めるとは!    僕はそれを励みに、息も()()えに石段を上りきった。  石段の上には、小さなお(やしろ)(※神様を(まつ)ってある建物)が建っており、そのわきには桜の木があった。  その木に手をかけて、櫻子様は立っていた。  ようやく追いついた僕は、櫻子様の左側にヘタヘタと座り込み、もう逃がすまいと振袖(ふりそで)(たもと)(※着物の(そで)の部分)の端を(つか)んだ。  よしっ! つかまえたぞ!  僕は心の中では、櫻子様にやっと追いついて、飛び上がりたいくらいうれしい気持ちなのだが、身体は思うように言うことをきかなかった。  昨夜の寝不足のせいか、朝食もまともに頂かなかったからなのか、僕は櫻子様の(たもと)を掴んだまま、頭がぼんやりとして辺りが暗くなるような感覚だった。  しっかりと左の(たもと)を掴まれた櫻子様は、ちょっとギョッとしたように、ビクッと身体を動かすと、鈴の鳴るようなきれいな声で、しかしハッキリと言った。 「ワタクシっ……お慕いしている方がおりますのっ!」
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