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僕の釈明
障子を開けたキヌが脇へ下がり、櫻子様と僕の姿が、待っていた大人たちの前に露わになった。
障子の外の縁に、青ざめた顔で姿勢よく座る櫻子様の右隣に僕も座り、そして誰が口を開くよりも先に大声で言って、手をついた。
「大変失礼致しました!」
そこにいる誰もが、僕の大声の謝罪にあっけにとられていた。
僕はすかさず続けた。
「席を立ちました時に、お仕度の整った櫻子様と偶然お会いして、僕は一目で心奪われてしまいました。
そして、つい僕の方から櫻子様へ話しかけてしまい、櫻子様をお引き止めしていたのです。
侯爵様、大変無礼なことを致しまして、申し訳もありません」
お見合いの席では、当人同士は言葉を交わさぬのが通常であるのに、僕から櫻子様に話しかけてしまったとすれば、櫻子様が悪く思われることはないだろう。
実際には、言葉を交わすどころか、僕は櫻子様の柔らかい手にも触れてしまった。
このことは言わないでおこう……。
僕の釈明が終わると、急に増田様が豪快に笑いだした。
「あっはっはっ!
わしは、元気な櫻子嬢が逃げ出しでもしたかと思っていたが、まさか孝坊がこんなに手が早いとは思わなんだ」
まさか櫻子様が逃げ出していると思われていたとは……さすが、大実業家の増田様。
人を見抜く目はたしかだ。
「ふ、藤孝……お前は侯爵様のご令嬢様に何てことを……」
父は信じられないというような顔つきで、口元をわなわなと震えさせている。
まぁ、信じがたいだろうな。
日頃から女の影が一つもない僕が、青木のような軟派なふるまいをするなんて。
しかも、お見合いする侯爵令嬢を相手にだ。
僕の方が多少、小言を言われてしまうだろうが、仕方がない。
大炊御門侯爵は、ギョロリとした大きな目を更に見開き、僕のことをまじまじと見ていた。
たぶん、僕が席を立つ前に、キヌから櫻子様がいなくなったことを聞かされていたのだろう。
増田様や僕の父の手前、どう取り繕うか思案されていたに違いない。
僕が盾になることで、櫻子様が逃げようとしたことを隠すことができる。
侯爵の目には、感謝の念が浮かんでいた。
侯爵は厳しい顔をやわらげて、座敷に入るように勧めた。
「そんなにも櫻子のことを気に入って頂けるとは……。
さあさあ、いつまでもそんな所にいないで、2人とも入りなさい」
櫻子様は何か言いたげに、口を結んでいる。
僕は櫻子様をたしなめるように、視線を流し、無言で口止めした。
母が言うには、お茶も飲んではいけないとの作法だったはずだが、侯爵はあらかじめお膳(※食事)をご用意されていたらしく、僕たちは折敷(※1人分ずつに盛った食事をのせる盆。この上に食器などをおいて食べる)で運ばれてくる会席(※宴会の料理)を頂いた。
僕は今日、櫻子様とお会いできて、たくさんお話でき、手まで握ることができた。
想像以上の美しさと、無邪気な可愛らしさを備えた櫻子様のことが、出会う前よりもずっと好きになった。
「お慕いしている方がいる」と聞いたときは、息が止まってしまいそうだったが、きっと単なる憧れであって、恋ではないはずだ!
きっと、僕のことを好きだと思ってくれる日がくるはずだ。
これまで、努力して叶わなかったことはない僕だ。
櫻子様のお心を手に入れ、結婚したい。
しかしお見合いで一時でも逃げ出されたとなれば、増田様や父もいい気はしないだろう。
このまま、櫻子様がお見合いを逃げ出そうとしたことが、増田様や僕の父にばれないようにしなければ。
途中、櫻子様の飾り結びをした帯のすき間から、桜の花びらがふわりと浮かび、増田様の折敷まで飛んで行ったときは、僕も侯爵も冷や汗をかいた。
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