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父の先見の明
「藤孝、聞いているのか?」
「はっ、はい! 父様っ、ごめんなさいっ!」
まだ見ぬ櫻子様の姿を、青木にもらった写真の肌襦袢の女と重ねて妄想していた僕は、ふいに父から名前を呼ばれ、思わず大きな声で謝ってしまった。
そんな僕の心の内を知ってか知らずか、父は真面目な顔つきで、ティーカップを持ったまま遠くを見つめながら言った。
「今は先の大戦(※第一次世界大戦のこと)からの大戦景気で、日本の景気は良いが、これがずっと続くとは思えない。
イギリスやロシア帝国も、じきに日本からの輸入に頼らずとも立ち直るだろう。あちらの人間もバカではないからな」
大正8年現在は、日本は大戦による好景気が続いていて、欧米への輸出が増大。
日本国内でのあらゆる製造業が大量生産に湧き、どんどん海外へ輸出して、多額に儲けるという構図ができていた。
それによって、国の借金も返済され、あちこちに成金業者も増えていった。
僕が生まれる前、父はイギリスへ留学し、そして僕が生まれてからもイギリスの貿易会社で働いた経験から、西洋人の考え方や経営手腕を、肌で感じ取っていた。
この時はまだわからなかったが、1年後には父の言う通り欧羅巴経済は復活。
日本からの輸出は不要なものとなり、日本は大量の生産品を余らせ、外国が買ってくれないことから大不況に傾く。
大財閥を率いていくためには、冷静に状況を見極め、判断していかなければならない。
そういう父を尊敬しているし、実際に、父の先見の明(※将来のことを見通すこと)には、驚かされる。
僕も将来、一井財閥を率いていく者として、このような判断ができるようになるのだろうか?
「どこかの成金に、よい娘をとられる前に、藤孝には幸せになってほしい」
そして、結構親バカでもある。
「こちらとしては、すぐに結婚でもいいのだが、あちらの家の顔をたてて、まずはお見合いという形で、春に顔合わせだ、いいな」
紅茶も飲み干し、「はい」としか返事のできない問いかけだと悟った僕は、父の言葉に大きくうなずいて見せた。
「ご紹介くださる、増田様の顔もある。
このお見合いで、ご令嬢に気に入っていただけるように頑張るんだぞ。
なに、藤孝なら大丈夫だ!」
何をどう頑張ればいいのか、いまいちわからなかったが、僕はお見合い話に了承した。
それにしても、僕なら大丈夫とは……何が大丈夫なのか?
この言葉も、父の先見の明が発揮されるとよいのだが。
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