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母の約束
僕たちのやり取りを聞いていた母が、テーブルをはさんだ向こうで、頬を少し膨らませて怒っているように見える。
「まぁ! 孝ちゃん。
昨日は青木さんと銀座でポークカツレツを召し上がったと母様に言いましたわね。
ウソをつくなんてダメですわ。母様は悲しゅうございます」
あ、この顔は悲しむというより、母様が不機嫌になられた時の顔だ。
こうなると、しばらく僕にグチグチと不満を仰って面倒なんだ。
僕は即座に母へ向かって、
「ウソをついてしまって申し訳ありません、母様。
でも、仕方なかったのです。僕もまさか、偶然見に行った女性が僕の妹だったなんて思いませんでしたから……」
母へ謝ろうとしていたのに、言い訳で思わず核心に触れてしまい、それを聞いた母の顔が曇った。
「やっぱり、孝ちゃんは知ってしまったのね……」
その時、大きく息を吸い込んで、アメリアさんが話し出した。
「ワタシが、フジムネが結婚しているのに、あきらめられなかったのが悪いのです。
神を……えっと……日本語なんて言うんだったかしら? blaspheme God」
隣に座っている撫子さんが小声で「冒涜」とアメリアさんにささやいた。
「あぁ! そう、ボウトク!
ワタシが、神をボウトクしてしまって、ナデシコを産んでしまったから、バツを受けなければいけない」
キリスト教は、結婚外の恋愛や姦淫(※倫理にそむいた肉体関係)に対して罪だと聞いたことはある。
同性愛に対しても厳しく禁止されているらしく、先ほど櫻子さんの「撫子さんに恋をしている」発言に、アメリアさんは胸の前で十字を切っていた。
でも、撫子さんを産んでしまったから罰を受けなければとは……。
まるで、撫子さんが生まれてきたことが悪いことのようではないか。
そして、アメリアさんは微笑みながら言った。
「ワタシは日本にきてよかったと思ってる。愛する人の近くにいられただけでも、毎日たのしかった」
撫子さんが深い息を吐いて、静かに口を開いた。
「これまで隠された存在として私はどこかうしろめたい思いをしながら生きてまいりました。
でも、昨日初めて藤孝様とお会いして、私のことが明るみになって、むしろスッキリいたしましたの。
『外国人の妾の子』と後ろ指さされながら、辛い思いもいたしましたが、私一人でも生きていく覚悟がございます。
お母様はこのままお父様のおそばでお暮しになるのが幸せかと存じますの。
私の方がイギリスへ帰りますから、どうかお父様、奥様、母のことをよろしくお頼みしたいのです」
座ったまま頭を下げている撫子さんの顔を、肩までの短くなった金色の髪が、隠して表情をうかがい知れなかった。
「そんなことはダメだ! 撫子は日本にいなさい」
父が撫子さんに慌てて言った。
「ではお父様、お約束はどうなさいますの?
奥様と交わされたという、藤孝様に私たちのことを知られてしまったら、お母様はイギリスへ帰らなければならないというお約束は?」
「約束? そんな約束をしたのか? 世津子」
父は横の椅子に腰かけている母に聞いた。
母はアメリアさんを見ながら、首を横にかしげる。
「そんなお約束いたしましたかしら?」
……え? どういうことだ? 約束してない?
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