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母の広い心
櫻子さんが、撫子さんへの憧れにキラキラと目を輝かせているのをみて、僕は内心ハラハラした。
あぁぁ、櫻子さん。そのきれいな瞳をこっちに向けてくれ。
僕が念じるように、櫻子さんを見ていると、僕の視線に気づいたのか櫻子さんがサラリと髪を揺らして僕の方を振り向いた。
わっ! 本当にこっち向いたっ!
ソファーに座っていた僕は、櫻子さんの方へ身を乗り出していたため、こちらを向いた櫻子さんと顔が不意に近づいた。
そして、僕に「何か?」と小さく尋ね、にっこりと笑いかけた。
はぁ~、可愛いなぁ~。
僕は顔が熱くなり「いえ、なんでもないです……」と、小さく返した。
先ほど撫子さんに叱られるように怒鳴られたアメリアさんが、小さな声でポツリと言った。
「すべてはワタシが神にそむいて、結婚しているフジムネを愛してしまったことが悪いの。
ナデシコはがんばって師範学校に入った。
これまでがんばって勉強していたナデシコは、ワタシと同じように先生になりたいと言っています」
アメリアさんは、徐々に言葉に力を込めてきて、最後には父の顔をしっかり見ながら言った。
「フジムネ、お願い。ナデシコの言うこと、かなえてあげたいの。
ワタシが最初にセツコさまに言ったこと、守ります。ワタシはBritain(※イギリスのこと)に帰ります」
「アメリア……」
父は、なんといっていいかわからないような顔で、アメリアさんの名前を呼ぶと目を泳がせていた。
母は首を横に振りながらアメリアさんに向かって言った。
「そんなことはダメですわ、アメリアさん。あなたは主人にとっても、撫子さんにとっても必要な方なのですから。
お二人とも日本にそのままいらっしゃるのがよろしいわ」
「でも、フジタカにヒミツにできなかった。ナデシコが言うみたいにフセイジツ」
眉を下げて母を見ているアメリアさんに、母は優しく言った。
「物事の分別もつかない子どもの頃に、孝ちゃん……藤孝に、一緒に住んではいないけれど、母の違う妹がいるとは言えなかったのです。主人のことを誤解して育っても、将来の一井家の当主として困りますしね。
でも、もう藤孝も結婚をする年になりましたもの。わたくしもそろそろ、きちんと話さねばならないと思っておりましたのよ。
お約束とおっしゃるのならば、十分守って頂きましたわ」
「セツコさま……ありがとう」
アメリアさんはポトリと涙を落した。
「世津子、お前にも辛い思いをさせて申し訳なかった」
父も頭を下げた。
母は「おやめくださいな」と父の手を取った。
母がアメリアさんと撫子さんのことをこんな風に思っているのなら、僕は何も言うことはないと思った。
僕の知らないところで、僕や父のことを思ってくれていたことが今回のことでよくわかった。
母がこんなに心の広い人だとは思わなかった。
もしも、好きな人に他にも愛する人がいるとなったら……。
僕は到底受け入れられないだろうと思った。
撫子さんへ恋をしていると宣言されたあの桜の木の下でのことを思い出した。
目の前が暗くなるような、腹の立つような嫉妬の気持ち。
初めて会って、まだ1週間ほどしかたってないのだが、僕はますます櫻子さんへの思いが募っていた。
だって……櫻子さんに、僕ではない他の人が……あぁ、考えたくもない。
僕が、ブルブルと首を振っていると、急に櫻子さんがスッと立ち上がって、撫子さんの前にひざまずいた。
えっ? 櫻子さん?!
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