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櫻子さんとひざ掛け
また、ここで話し込んで遅くなってはいけない。
僕は櫻子さんを大炊御門家へお送りするからと話を切りあげ、改めて母とアメリアさん、撫子さんに挨拶をして、客間のドアを閉めた。
「撫子様とお出かけするの、楽しみですわ~!」
櫻子さんは、両手をバラ色に染まった頬に当てて、「はぁ~」と感嘆のため息をついた。
目は潤んだようにキラキラと輝いていて、口元は笑顔の形に上がっている。
かわいいっ!
可愛いんだけど、撫子さんとの約束でこんな嬉しそうな顔をするのが、僕はちょっとくやしかった。
僕に対しては、こんな風に楽しみにしてくれないんじゃないか?
自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。
「僕も、ついて行きますからね! 僕も!」
ちょっと語気を強めて言ってしまったが、櫻子さんはちっとも気にしていない様子で、
「えぇ、お願いいたしますわ」
少し恍惚としたような笑顔のまま僕を見て答えた。
嫉妬心に駆られながらも僕は、櫻子さんのその美しい顔を見て思った。
……まぁ、可愛いから許しますけど。
僕たちが階段を降りると、玄関で女中頭のトキが僕のベストと上着を持って待っていた。
トキは、僕に上着を着せながら自動車の準備もできていると言った。
この百塩茶色(※赤味のあるこげ茶色、チョコレート色)の背広(※スーツ)の上下は、僕もちょっとお気に入りだ。
赤いビロードのショールを受け取って、僕が上着を着せられているのをじっと見ていた櫻子さんが、ポツリと言った。
「結婚したら、ワタクシがこのようにお着せするのかしら……」
僕はその独り言が嬉しくて、思わず顔がにやけてしまい右手で口を覆った。
そして、櫻子さんと目があってしまい、お互いに赤くなってパッと目をそらした。
その様子を見ていたトキが、いつもの固い表情をゆるめ、その場に膝をついて座った。
「坊ちゃんがご結婚なさるまでにご成長なさったこと、トキは本当にうれしゅうございます。
僭越ながら(※身分を越えて出過ぎたことをすること)、大炊御門のお嬢様。
坊ちゃん……いえ、若様のこと末永く伏してお願い申し上げます」
両手をついてお辞儀をするトキに、少し驚いた様子だった櫻子さんへ、僕が「トキは僕の乳母だったんですよ」と口添えすると、櫻子さんも納得したように大きく頷く。
「ワタクシこそ、どうぞよろしくお願いいたします。今日は、皆様にお騒がせしてしまってお詫びいたしますわ」
トキもまた低くお辞儀をしてかしこまった。
玄関先でエンジンをかけて待っていた、運転手の鈴木がにこやかに後部座席のドアを開け、僕が先に乗り込んだ。
この自動車は車高が高く、足台に足をかけた櫻子さんに僕は手を差し伸べて、またその柔らかな手を握ることに成功した。
屋根のない車なので、櫻子さんが冷えてはいけないと、トキがひざ掛けを持ってきてくれた。
櫻子さんはいつものように女中のトキにお礼を言い、僕の方を見た。
「藤孝様も、ご一緒に掛けませんこと?」
顔を赤くしながら、僕にぴったりと寄り添い、ひざ掛けをひろげて僕の方まで掛けてくれる。
僕は嬉しいけど、緊張して体がこわばった。
そして、僕の一部が大人しくしててくれることを祈った。
こ、こ、これは……まずいかもしれない……。
僕のボクが……。
でも、身体はこのまま離れたくもなく、櫻子さんのぬくもりを左半身にしっかりと感じながら、車は出発した。
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