なかなか来ない櫻子様

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なかなか来ない櫻子様

 大炊御門(おおいのみかど)邸は、小高い丘の上にあり、僕の家から自動車で20分ほどかかった。 「櫻子嬢は、とても可愛らしい子でな。  小さい頃は、よくわしの膝に乗りにきたもんだ」  増田様は、少し得意げに見えるほどの笑顔を見せた。  増田様と大炊御門侯爵(おおいのみかどこうしゃく)も、旧知の仲のようだ。  それにしても、やはり櫻子様は可愛らしい方なのか。  お小さい頃は、お客様でもある増田様のお膝に座るなんて、少々お転婆(てんば)さんだったのだろうか。   ……僕の膝にも乗ってほしい。  大炊御門邸は、純日本邸宅の外観だが、中は洋風の部屋をいくつか増築されており、数多くの部屋と廊下で仕切られ、案内がないと迷ってしまいそうだった。  庭園も広く、飛び石や石灯籠(いしとうろう)が配置された日本庭園とは別に、洋風に整えられた庭もあった。  向こうの方には桜が咲いているのか、桃色に染まった丘も見えた。  僕たちは屋敷の奥まですすみ、和室の大広間に通され、増田様から順に上座に座った。  とうとうお見合いだ。  あぁ、緊張する。  隣の父は、青ざめた僕の顔をみて、吹き出さんばかりに、ニタリと笑顔になり、 「初夜でもないんだ。そう、緊張するな」 とささやいた。  父なりに、緊張をほぐそうとしたんだろう。 見ると増田様もニヤニヤしている。  まったく、大人はすぐに下品な物言いをする!  ぼ、ぼ、僕はそんなことまだ考えていないぞ。  櫻子様と、初……初……。 「ようこそお出ましくださいました」  その時、ハリのある声が響き、僕は体がビクッとなり、ますます緊張した。  立派なヒゲをたくわえた大炊御門侯爵が、うやうやしく挨拶にお見えになった。  侯爵は、ヒゲの上で二つの大きな目をギョロっと見据(みす)え、威厳があり、ちょっと近寄りがたいような印象だった。  大人たちはしばらく世間話や、この大広間の立派な(ちが)(だな)のある(とこ)の間や、赤松(あかまつ)床柱(とこばしら)、また、お(じく)(※掛け軸のこと)などの、立派な(しつら)えについて、増田様が侯爵にお尋ねになったりしていた。  茶道の心得のある増田様はとても興味深げに、侯爵に尋ね、またそれに侯爵が答えられる。  話はどんどん発展し、あの時の茶事の道具組がどうだったとか、この前有名な茶入をようやく手に入れたなどと、茶道の話で盛り上がっていた。  父も時々お茶事(ちゃじ)に招かれるため、うなずきながらお二人の話を聞いていた。  僕はまだ学業にも忙しく、茶道は習得していない。  お呼ばれしたときに困らないようにと、お茶の飲み方くらいは、母や乳母が教えてくれた。    上流階級の(たしな)みとして、茶道は必須ではあるが、あまり興味もひかれず、習うのを先延ばしにしていた。  知らないことを話す大人たちの会話を、じっと聞いていると、やや緊張がほぐれ、少し退屈になってきた。  なかなか来ない、櫻子様。  母から聞いたお見合い作法では、いい頃合いで、お茶を持って櫻子様が登場されるはず……。  30分ほど待っただろうか?    大人たちの話は、増田様がこの間手に入れられた茶道具の話で盛り上がり、秀吉公(※豊臣秀吉)の時代にまで話が及んでいた。 「失礼致します」  障子の向こうから、少し低めの女性の声がした。    来た! 櫻子様だ!!
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