終焉

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終焉       誰もいない部屋で、私はため息を一つつき、立ち上がった。 すべて終わった。 今日、私はこの家を、出て行く。 すでに荷物はまとめてあった。小さなカバン一つにすべてを詰め込んで、私は静かにドアを出た。 振り返れば、15年余り暮らした家が、私を見送っている。 さようなら。小声で誰にともなくつぶやいた声が、ふわりと風に乗って消えた。 悲しいことなど何もない。 これでいいのだ。 細い道を歩きながら、ふと気づく。 薬指の指輪にはめ込んだ、小さなダイアモンドがきらりと光る。 うっかりおいてくるのを忘れてしまった。 結婚当時、夫がなけなしのお金で買ってくれたものだ。 あのころは、まさかこんな別れが来るとは思いもしなかった。 なのに、人生なんてわからないものだ。 まだ若かったころの夫と自分の、共有してきた思い出を一つ一つ数えては歩く。 道は続いている。細く、長く。 子どもの好きな夫は、子を欲しがった。 できることならそれをかなえてあげたかったが、ついに授からなかった。 せめて一人でも生んであげたかった。それだけが心残りだ。 二人で近所を散歩するとき、公園で遊ぶ幼い子供たちを、目を細めて眺めていた横顔。 愛しげに、さびしげに、口元をほころばせていた夫。 穏やかで、決して声を荒げることのなかった人だった。 道は延々と続いている。 しかし、周囲に家はなかった。 もうすぐだろうか。 今頃、夫はどうしているだろう。 慣れない用で困ってはいないだろうか。 せめて私が手伝ってあげられたらよかったのだが、残念ながらそれもできない。 申し訳ない気持ちで、ふ、とため息をついた。 歩き続けてカバンを持つ手がすこし疲れてきた。 持ち直すために立ちどまると、どこからかせせらぎの音が耳に入った。 川があるのだろうか。 右手に生い茂る草をかき分けると、ゆるやかに流れる川が見えた。 着いた。 ゆらゆらとたゆたう小舟に人がいる。 笠の下のその顔は、夫によく似ていた。 さあ、行かなければ。 ごめんなさい、さようなら、あなた。 不慮の事故でこの世を去ってしまった私の葬儀で、今頃夫は大変な思いをしているにちがいない。 こんな風に彼を悲しませることになってしまったことが、ひどくつらかった。 終
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