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「一旦立てる?」
「……」
駅周りという人通りの多い場所でお姫様抱っこをされた恥ずかしさから、悠陽はずっと目を瞑っていた。その間にも颯太は早足で移動をし、どこかに着いたようだ。
ずっと体がゾワゾワするような感覚に、悠陽は心身ともに落ち着かなかった。自身がSubであるということが、よりにもよってDomである颯太にバレてしまった事やCommandを受けた事、何もかもが不安な中で今は彼に体を委ねる他無かった。
「ここは……」
「俺の家。あそこから近かったし、今の戸村さんのその状態で他にどこに連れて行けばいいかわからなかった」
か弱い声で場所を聞いた悠陽に、颯太はそう答えた。そして、悠陽を丁寧に降ろすとズボンのポケットから鍵を取りだしてガチャりと開けた。颯太は扉を開けて中に入り、悠陽にも入るようにと促した。悠陽がおずおずとしつつゆっくりと足を進めて中に入ると、颯太は扉を閉めた。
颯太は駅近のアパートの一階に一人暮らしをしている。家の中はさほどものは置かれておらず、最低限の生活は出来るかなといったとこだ。
(人の家、緊張する)
ただでさえ気が張っている中で、人の家に入るというのは悠陽にとってはかなりハードルの高い行動だったが、とやかく言える状況では無かった。
颯太が靴を脱ぎサッサと部屋の奥へ進んでいくが、悠陽は靴も脱がずに玄関で棒立ちをしていた。
「……入らないの?」
「あ、えっと、お邪魔します」
「うん、こっち」
颯太に促されようやく靴を脱ぎ、部屋に入る。颯太はベッドに浅く腰をかけて悠陽がソワソワしている様子を見ていた。Subだとバレた後にDomである彼の家にいることを改めて実感した悠陽は、緊張よりも恐怖心が打ち勝ち颯太の顔を見ることが出来ずに部屋の中をキョロキョロと見ていた。
「戸村さん」
「あ……日座くん、さっきのは」
「誰にも言わないよ。別にアンタの事を周りに言いふらしてどうこうしようとは思ってないから」
「……それは、ありがとう」
「……隠すのも無理ないだろSubは。それにさっきのはあの叫び散らかしてたアイツがおかしい。ああなった時に俺以外の誰かに見られてなくてよかった」
「確かに、あの時キミ以外の人に見られてたら……」
そう思うとゾッとした。一気に血の気が引いていくのが分かった。寒くもないのに体が震え、暑くもないのに汗が流れるような。そんな恐怖が悠陽を襲った。
──誰にもバレないようにこれまで必死に隠してしてきたのに、颯太にはあんな一瞬でバレてしまった。彼以外の人に見られてしまい、全てが終わってしまうなんてたまったものでは無い。
そうでなくても俺があの場で地面に手を付いた姿でいたら、通行人になんて思われるか。
悠陽はさっきのことを思い出すと──
(また、命令して欲しくなる)
「……そんな顔しないでよ」
恥ずかしかったのに、恐ろしかったのに、本能に負けてしまいそうになる。そんな自分にムカつきながらも悠陽は颯太の顔を見た。
颯太はベッドに深く座り直すと足を組む。その様子を見て、彼の一挙一動に何かを期待してしまう自分をもはや抑えることが敵わなくなりかけていた。抗えぬそのSubの本能に流されるがままになりかけていたのだ。
「俺は家に連れて来て、ただ話そうとしてたんだけど……“Come”」
「あっ……」
颯太が優しくそう呟きながら人差し指をクイッと曲げて、自身の目の前に来るようにと悠陽に指示を出した。すると悠陽の体がグッと引き寄せられるかのように、颯太の目の前まで進んでいく。
「偉いね、じゃあ次はここで“Kneel”、出来るよね」
スっと力が抜けるように、ぺたりとその場に座り込む。悠陽は颯太を見上げると、彼が恍惚とした表情をしていることに気がついた。灯りをつけていない薄暗い部屋の中でもその表情がハッキリと見えた。その顔を見た悠陽は、心臓の鼓動がドクドクと全身に共鳴しているような錯覚に陥る。二人きりのこの部屋は静かなせいか、その心音すら耳元で聞こえているように思えた。
(俺に命令をして、心地良さを感じているのか?)
「“Good”、よく出来た」
「ッ……」
クシャりと頭を撫でられると、再びぼんやりとする。悠陽はこれまで生きてきた中で一番、心が満たされていた。
(これがCommandなのか、これが支配される心地良さなのか、認めたくないのに抗えない、悔しいのにもっと欲しくなる……)
悠陽は撫でられる手に頬をあて、スリスリと擦り付けた。もはや本人の意思とは関係なく、身体が動いていると言ってもおかしくは無い状況である。颯太もまた、それに応えるように頬を撫でる。
「っ……、可愛い……“Look”、俺の目を見て」
目を合わせると、二度と逸らせなくなりそうなほどに惹き込まれていく。颯太は悠陽を愛おしそうに見つめ、悠陽もそれに応えるかのように上目遣いで見つめている。
頭がぼんやりして思考が鈍くなってきていく悠陽は、このまま自我を手放しこの心地良さに身を任せたいとすら考えるようになっていた。けれど心のどこかでそれを許さない自分がいて、うっすらと残ったその理性が自我を保とうと足掻いていた。
「すごい幸せ。アンタは?」
そうとは知らず颯太は嬉しそうに目を細めながら悠陽にそう問いかけた。
(日座くん、こんな表情が出来るなんて思ってもみなかった)
そんな彼の表情はSubの俺にしか向けない表情なのかもしれない、そう思うとさっきまでとはまた違う感情が心を覆っていく。胸の奥がザワつくような、くすぐったいような、けれど苦しくてもどかしい、そんな感覚だった。
「俺も、嬉しい」
「そうなんだ、よかった……。ねぇ、もっと求めていい?」
「……うん」
「俺の上に乗って欲しい」
悠陽はまだ少し怯えつつ、警戒しつつも従順に小さく頷いた。颯太は組んでいた足を戻して、悠陽が乗るのを待っている。言われるがままに颯太の上に向き合うようにしてそっと跨ると、そのままぎゅっと抱き締められた。その際に触れられた腰や背中にゾクゾクと痺れる感覚がした。
(……暖かい)
誰かに抱き締められる事がこんなにも暖かくて優しくて落ち着くことを、悠陽は初めて知る。
その安心感に身を任せ、颯太の首に顔を埋めた。
「戸村さん、いい子だね」
褒められる度に嬉しくて仕方がなかった。
自分が認められているようで、次は何を言われるのか、何をしたら褒められるのか、そんなことばかり考えるようになっている。
「嬉しい、アンタが俺の言う事聞いてくれて」
「俺も、今まででこんなの初めてだよ」
「そう、よかった。ねぇ、名前で呼びたい」
「……うん」
「悠陽、可愛い」
颯太はそう言いながら抱き締めていた手を頭に移動させて優しく撫でた。近距離で囁くように名前を呼ばれて一気に顔が熱くなる。悠陽はこの気持ちをどう受け止めたらいいのだろうかと悩み始めていたが、今はそれを素直に嬉しい、幸せだと思うことにした。
「俺の名前も呼んでよ」
「……颯太」
「……嬉しい、悠陽」
名前を呼ぶと、抱き締める力が強くなった。悠陽も抱きしめ返そうかと思ったものの、今更こんな状況でも照れくさくて出来なかった。
心を開いて相手に全てを委ねてしまう事にまだ抵抗を感じてしまう。もっと素直に生きていられたら、こういう場面でも甘えることが出来ていたのだろうか。悠陽は多幸感の中に少しだけ寂しさを感じた。
「……あのさ、悠陽ともっとこういうことしたい」
「それはCommandを使いたいってこと?」
「そう。歓迎会で見かけた時から悠陽のことが気になってたから、こうしていられるのが嬉しい」
(歓迎会? 席は遠かったし、店の出入口ですれ違った時くらいしかまともに話していないのに)
「イキナリは嫌?」
「……えっと、薬に頼って生活してるのは良くないし、お互いの体調とかメンタルのためにも──」
そう答えている途中で違和感を覚える。本心とは違う言葉を連ねていたからだろうか。いつもみたいに取り繕った言葉が続かずに急に胸が苦しくなった。
“心身のため?”
(違う、俺は……)
「俺はまだキミのことが分からないし、この状況に心が追いつかない、受け入れきれていない。でもこの行為自体は悪くないと思ってる、かな」
「本当? それなら今すぐに色々しようとは言わないから、今はこうして過ごしたい」
「わかった。もうバレてしまったしキミはなぜか俺の嘘をよく見抜くから……簡単なCommandだけでいいなら……」
その言葉を聞いた颯太は抱き締める腕に力を入れて喜びを表現する。
「苦しい」
「ごめん、嬉しくて」
「……なんでそんなに俺を気に入ってくれたのか分からないんだけど」
「それは俺も分からない。悠陽を一目見た時からずっと目で追いかけてた。それに歓迎会が終わって帰ってからも直ぐに会いたくなった。昨日怒らせた時は終わったと思った」
「……本当に、そんな風に素直なキミが羨ましいよ」
まるで告白じゃないか、そう思い心がソワソワと落ち着かなくなる。今まで誰に好かれようとこんなにドキドキしたことは無かった。
(これは俺がSubとして彼のことをDomという意識で見ていて、本能からくる感情なのかな……)
それともそういうものを取っ払っても自分の心がそう感じているのか、直ぐに答えは出せない。
ダイナミクスが関係していないと言うときっとお互いに嘘になるだろう、ダイナミクスで惹かれ合うことは珍しいケースではないからだ。それが良いか悪いかは当人同士の問題だろうが、悠陽には寂しく感じるのだった。ダイナミクスが無くたって信頼し合える、愛し合える関係の人と出会えたらと思っていた。
(それって高望みなのかな)
颯太の腕の中にいる今は本当に心地良く、彼のことを悪くは思わなかった。ただ、彼がなぜ自分の事を意識しているのかが、さっきの言葉を聞いても未だ納得しきれなくて心を開ききれないでいる。
俺が色々なことに嘘をついていることを見抜いたことで、俺に不信感を覚えたりしなかったのだろうか? 嘘つきなんかと一緒にいても、嘘をつかれると思わないのだろうか。彼の言葉は素直だけれど、心の中はまるで分からない。
相手を知れば知るほど、自分を曝け出すほど、後戻りが出来なくなってしまいそうで怖かった。誰かと親密な関係になることが怖かった。
薄暗く静かな部屋の中、お互いの呼吸や鼓動を間近に感じ合う。二人の早まる鼓動はCommandによる多幸感からなのか、初めての経験に緊張しているからなのか、それとも他の感情が含まれているのか。二人とも自身の気持ちを理解しきれぬまま穏やかに時間を過ごしていた。
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