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「やあ、また会えたね」
男はそう言って、目の前の女に笑いかけた。男は女から視線を外し、眼前の海を見つめながら、小さな声で歌を歌っていた。女は男の背中を見ながら、男の小さな歌声に耳を澄ませる。何を歌っているのかは分からなかった。やがて男が歩き出したので、女は男の後をついていく。
「君に会えたということは、僕はもうじき死ぬんだろう」
男がぽつりと呟く。女は驚愕の眼差しで男を見た。
「なぜそんなことを?」
女が聞くと、男は歩みを止めないまま笑って答える。
「僕は君をよく知っているからだよ。僕の死神さん」
ベンチを見つけると、男はどっかりと座り込んだ。自分の隣を手のひらで叩き、女も座るように促す。女は言われるまま、男の隣へと腰掛けた。
男は前屈みになり、自分の膝に腕を置いた。ベンチから見える海は、さざなみを立てている。
「僕はなにで死ぬのだろう」
「死因を知りたいですか?」
「知りたいような、知りたくないような」
男が自嘲的に微笑んだ。そのまま項垂れると、ぽつりぽつりと話し出す。女は黙って、隣で男の話に耳を傾けた。
「今世の僕は、売れないミュージシャンだった」
男の独り言のような言葉に、女は頷いた。女はとある理由で、男の人生とプロフィールについて、ある程度のことは知っていたので、恐らく目新しい情報は無いだろうと予測していた。しかし、今世、という言い方が、女には引っかかった。
「歌に書くのはいつも君のことだ。似た様な歌ばかりになってしまった」
女は驚いて男を見る。男は未だ項垂れていて、表情は分からなかった。
「歌ってみてください」
女は、自分を題材にしたという歌を聞いてみたくなり、男にそう言った。男はやっと顔を上げて、滑らかな声で歌い始めた。暗い曲調の歌だった。許されない恋に身を焦がす男の歌のようだったが、女には身に覚えがなかったために感情移入はできなかった。
歌を歌い終わった男が、女に向き直った。そして幾分すっきりしたような顔で言う。
「君は僕の元に来る時、いつも僕を忘れている」
女は不思議に思った。自分は何も忘れている気などないからだ。しかしそれこそが、忘れているということそのものなのかもしれないとも感じた。女にとっては、今対峙している男は初対面の相手だ。
「前世、僕は猫だった。死を悟った時、飼い主に心配をかけまいと誰もいない場所を探していたら、君が来た。僕は君の腕の中に蹲って、にゃあと一つ鳴いてから死んだ」
幸運だった、とぽつりと男が呟いた。飼い主には良くしてもらったよ、と懐かしむ様な瞳で言うと、続けて「天寿も全うできたしね」と言って笑った。今世はそうではないことを、暗に嘆いているようにも、女には聞こえた。しかし、女には猫を抱いて看取った記憶など無かった。男は何か人違いをしているのではないかと、女は思う。
「虫だったこともあったな。人として生きるのは何度目だろう。恋人を作ったこともあったし、一人で生きたこともあった」
恋人と言った時の男は、言葉とは裏腹に、どこか寂し気な面持ちであった。男は懺悔するように、言葉を地面へと落とす。
「これは罰だ」
女は男をじっと見つめた。男の言葉の意味は分からなかった。男の言う「これ」が何のことを指しているのかも、分からない。
「僕達の罪への、罰なんだ」
噛み締める様に言った男は、ベンチから立ち上がり、どこへ行くともなく歩いた。女は後を追う。追いながら、男へ言葉をかけた。
「私は死神として、あなたの元へ来ました」
「知っているよ」
「あなたの命の終わりを見届け、魂を冥府へ連れていくのが私の役目です」
「それも知っている」
女は不思議に思う。初対面のはずのこの男は、なぜこんなにも自分のことを知っているのだろうかと。
「なぜ、知っているのですか」
そして、その疑問を直接男へと向けた。今まで歩みを止めなかった男は、その質問に対しては歩みを止め、女を振り返った。
「言っただろう。君は僕の死神だ。今のは全て、今までの君から聞いたことだ」
「でも私、あなたとは初対面だと思いますが……」
「覚えていないだけだよ。毎回ね……それがどういう仕組みでそうなっているのかは僕には分からない」
男はまた、前を見て歩き始める。男の足は、自分の家へと向かっていた。それを追いかける女は、男の摩訶不思議な言葉を鵜呑みにも出来ず、かといって無視をするにしても、男は知り過ぎているように思えて、途方に暮れてしまった。
やがて男の家に辿り着くと、女は中に踏み入ることを躊躇したが、男は手招きをして女に中に入るよう促した。女は逡巡した後、自分の役目を果たすには必要なことであると割り切って、部屋に足を踏み入れた。
男の部屋は雑然としていたが、ギターとアンプの周りだけは物がなく、あちらこちらに書きかけの楽譜が散乱していた。
目をやった書きかけの楽譜には、大きくバツ印が書かれていた。恐らく、没にした曲なのだろうと女は推測する。渾身の力を込めて書かれたバツから、女は目を離すことが出来なかった。それがまるで、苛立ちや憎しみをぶつけたように見えたせいであった。
「ばつ……」
女の呟きに、男が答える。
「さっき言った、僕達の罪、というのは……」
女は、男が「ばつ」の意味を勘違いをしていることを分かりながらも、頷いて続きを促した。先程、男が「これは僕達の罪への罰だ」と言ったとき、意味が分からなかったことをようやく思い出す。その意味を聞くことが出来るなら、是非とも聞いてみたいものだと思いながら男の言葉を待った。
「僕達が……愛し合ったことだ」
それの何が罪なのだろうと、女は思った。人と人が、いや、人同士とは限らないかもしれない、生物同士が愛し合うことの何が、罪だと言えるのだろうか。女はそう口にしようとしたが、男が言葉を続けたために阻まれてしまった。
「今度の君も、これで思い出すだろうか」
男が、女の手に触れた。そのまま強く握り込んで、女の目をじっと見つめる。女が、男の瞳に映る自分と目が合った瞬間、濁流のように、断片的な映像が脳裏を過っていった。
幸せそうな男と女の顔。二人を糾弾する親戚の人間に、軽蔑の眼差しを向けてくる両親。二人の味方はいなかった。それでも共に在りたかった二人は、冬の冷たい海の中、手を繋いで……
そこで、女は意識を手放した。男には、女の手が、酷く冷たく感じられた。
女が目を覚ました時、男はすぐ近くで眠っていた。女は静かに眠る男の周りに目をやる。アルコールの缶が転がり、薬らしき瓶からは白い錠剤が溢れていた。
男がオーバードーズをしたことはすぐに分かった。しかし、女に知らされていた男の死期は、今では無かった。
外はいつの間にか雨が降っていた。アパートの薄い壁の向こうから、雨音が聞こえてくる。女はすっかり暗くなった窓の外を見た。いつの間にか付いていたラジオから、名前の知らないジャズが流れていた。
男は目を覚ました後、女に見向きもせずに玄関から出て行った。そして、朦朧とした状態で階段から足を踏み外し、打ちどころを悪くしてそのまま亡くなった。
男は予定通りの死期を迎えた。女はかつて愛した男の亡骸を抱え、一筋だけ、頬に暖かいものが伝わるのを感じたのだった。
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