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あの角を曲がったら、見えてくる。
駐車場とクリーニング屋さんの前を通り過ぎ、ビニールハウスと古いアパート。その塀の先。
あたしはいつもそこで走り出した。
曲がるともうすぐ赤い屋根の家。小窓越しあたしに気づき、開け放したキッチンの裏口からのぞく顔。微笑んで小さく手を振る。そして、「おかえり」と迎える声。
それを少しでも早く見たくて、聞きたくて。
――あれは、お母さんじゃなかった。
あの火事の中、2階の部屋で動けなくなったあたしを、窓から突き落とした人。そのために自分が逃げ遅れた人。何もかも焼けた我が家に残った遺体。
その人は、あたしのお母さんじゃなかったのだ。
「歌織が20歳になったら言うつもりだったんだよ」
新しく借りたマンションの一室で、お父さんが絞り出すような声で言った。本当はあの人と二人であたしに伝えるつもりだったのだろう。なのにひとりで。苦しそうに。
でも、人一人亡くなるとたくさんたくさん書類を揃えなくちゃいけなくて、その中に戸籍抄本も必要で、それをあたしが見てしまう前に言わなくちゃいけないと。
あたしは、お父さんの連れ子。前の奥さんが本当の母親で、あたしを産んだときに死んだ。だから、あたしと後妻のあの人とは血のつながりがない。と。
藤原、由希子、さん。……あの人とあたしが一緒なのは、名字だけだった。そう理解した途端、あたしの中で朦朧としていたあの人の影が、完全に姿を消した。
あの角を曲がったら。
どんな顔が見えたんだっけ? どんな声だった? ……それ以前に、あの人と毎日どんな話をしてどういう思い出があった?
本当の娘じゃないなんて、生まれて13年もの間、一度も疑うことはなかった。それほどにただ優しくて温かい――そんな感覚が胸の底に沈んでいるだけ。
何をしゃべってどこへ出かけて一緒に何をした――そういった具体的なことは何も残っていなかった。写真や家計簿なんかの物的証拠は全部燃えてしまった。
あたしは火事から助かったものの、2階から落っこちたときに足を骨折した。そのリハビリに通わなくちゃいけなかった。でも通うだけで精一杯。元のように歩こう、という気力は全く出てこない。いつもただぼんやり時間を費やして終わるのだった。
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